科学技術 | TamLab 授業のおもちゃ箱 https://tamlab.fc2.page 情報系科目の講義資料とツールを公開 Wed, 22 Nov 2023 12:49:31 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.7.2 オートジャイロ型紙飛行機 https://tamlab.fc2.page/category-materials/2118/ https://tamlab.fc2.page/category-materials/2118/#respond Wed, 22 Nov 2023 12:25:02 +0000 https://tamlab.fc2.page/?p=2118 二宮康明氏

11月20日の新聞で日本紙飛行機協会会長の二宮康明氏が逝去されたことを知りました。氏は,1967年から2016年まで月刊『子供の科学』で紙飛行機の付録を連載されていました。紙飛行機のパーツの形が印刷されたケント紙が折り込まれていて,パーツを切り離して貼り合わせると紙飛行機が完成するというものです。

氏の訃報に接して,昔作った「オードジャイロ型紙飛行機」のことを思い出しました。

「子供の科学」の紙飛行機と私

私は,小学校から中学校まで「子供の科学」を定期購入していたのですが,付録の紙飛行機を作ったことはほとんどありません。付録は「設計図」も兼ねるものと考えていました。残念なことに私は非常に不器用だったので,切り抜きや貼り合わせがうまくできずに,作品と設計図の両方を失ってしまうのが心配だったのです。

その代わり,ケント紙に鉛筆でパーツの型を描き切り抜いて紙飛行機を自作することは,よくやっていました。深く考えずに作図していたこともあり,良く飛ぶものは作れなかったと記憶しています。

オートジャイロの紙飛行機を作ってみた

あるとき(中学校の3年次か高校の1年次の頃?),「ちょっと変わった機体を作ってみよう」と考えて試してみたのが,オートジャイロの紙飛行機です。オートジャイロというのは,Photo. 1に示すような,ヘリコプターのような回転翼(ローター)を持つ飛行機です。ヘリコプターとは異なり,通常の飛行中はローターは動力から切り離されてフリーになっています。推進力は別の推進用プロペラで発生し,機体が前進して風を受けるとローターが回転して揚力を生み出します。

Photo. 1 小型のオートジャイロ 推進用のプロペラが後部に見える

二宮氏の紙飛行機の中には飾りのプロペラを持つ機体もあったと記憶しております。しかし,揚力を得るための回転翼を持つ紙飛行機に関しては,私は目にしたことがありません。「紙飛行機」の定義が,「全てのパーツが紙でてきていること」だとすると,紙だけで作るのは無理な「軸受け」を含むので,回転翼機は紙飛行機とは言えないかもしれません。しかし,面白そうだと思い,作ってみました。

作り方

フリーに動く回転翼を持つ,という程度の知識しか持っていない状態で作ったのが,以下の図(Fig.1~Fig.4)に示すような紙飛行機です。記憶があいまいだし記録も残っていないので,概略のみ示しています。パーツの形や数も覚えていません。問題の軸受けは,裁縫で使うマチ針とビーズを使っています。(ビーズは,竹ひごと紙で作るゴム動力の模型飛行機でも軸受けとして使われていたと思います。)

FIg1. パーツ一覧(紙の部品はもっと多い)        Fig.2 組み立て 

ケント紙のパーツを切り抜いたら,木工用ボンドで貼り合わせます(Fog.2)。ローターのパーツは切れ込みを入れ,回転方向側の縁の傾きが大きくなるようにして,断面が翼型になるように曲げておきます。

     Fig.3 ローターの取り付け           Fig.4 出来上がり

ローターの取り付け方の記憶があいまいです。たぶん,Fig.3のように,ローターをマチ針のヘッド部とビーズで挟むようにして針を刺しておき,木工用ボンドが乾ききらないうちに,本体の貼り合わせ部に差し込む・・・というやり方だったと思います。

飛ばしてみると

完成した機体を普通の紙飛行機のように手で投げると,ローターが回転しながら進んでいきます。飛行経路も,放物線というよりは若干直線に近いので,ローターが揚力を発生していることは確かです。しかし,よくできた普通の紙飛行機のように,上昇したり,旋回して長時間滞空しているということはありません。高度を下げながら滑空するだけだし,滞空時間も短いです。面白い飛び方はしないなあ,という感想を持ちました。

今調べてみると,実際のオートジャイロは,滑走距離が非常に短い,旋回半径が短い,失速しないなど,多くの特徴を持っていることがわかりました。ローターも,離陸時にはエンジンの動力を伝え,離陸後はクラッチを切ってフリーにするという機体もあったということです。

アニメーション映画の「ルパン3世 カリオストロの城」には「オートジャイロ」と呼ばれる飛行機が登場します。これは,機体の後部に推進用のプロペラが確認できますが,さらにローターの先端にジェットエンジンが付いているという奇妙な構造をしています。TVで観たときは「オートジャイロってローターは無動力のはずなのに・・・。」と思ったのですが,ローターを回転させる機体もあったことを今になって知りました。

もう一度作るなら

紙飛行機のオートジャイロはダイナミックな飛び方をしなかったこともあり,その後,作ることはありませんでした。でも,もう少し工夫すれば面白い玩具ができたかもしれないと思っています。例えば以下のようなことをしても面白かったかもしれません。

  • 材料を変える
    スチレンペーパーなど軽い材料を使う。軸受けに摩擦の小さいものを使う(ライトプレーン用のベアリングがあるみたい)。
  • ローターのブレードの数や傾きを変える
    ブレード(翼)を3枚や4枚にしてみる。また,回転軸を傾けるようにすると,旋回させることができたかもしれない。
  • 紐でひっぱる
    Fig.5のように,紐で引く力を推進力にする。

Fig.5 紐で引っ張るジャイロカイト紙飛行機

3番目の「紐で引っ張る凧のようなオートジャイロ」は,ジャイロカイトローターカイトと呼ばれているようです。潜水艦で引っ張る偵察用の無動力オートジャイロもあったそうです。

国際競技にもなっている紙飛行機では,推進力として手で投げるかゴムのカタパルトを使うことになっています。競技とは別に,凧のように紐を引きながら走ったり,向かい風の中で滞空させる形式の紙飛行機があってもよいのかな,と思いました。私が調べていないだけで,そのような玩具が世の中には出ているかもしれません。

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読めない本 https://tamlab.fc2.page/category-books/category-books-art/2086/ https://tamlab.fc2.page/category-books/category-books-art/2086/#respond Mon, 20 Nov 2023 10:30:39 +0000 https://tamlab.fc2.page/?p=2086 ヒューゴ・メルシエ∥著,高橋 洋∥訳:人は簡単には騙されない:噓と信用の認知科学,青土社(2021/03)

初めに言い訳・・・

暑さによる体調不良で,夏の間は何もできないまま過ごし,気が付いたら11月も半ば過ぎてしまいました。夏バテに加えて,慢性の腰痛持ちだったのがひどくなってパソコンの前に座っていられなくなりました。

電子回路の不具合やソフトのバグなら,幾つかの原因を仮定し,1つずつ条件をコントロールして動作を確認していく,というやり方で原因をつかめます。しかし,自分の身体となると,そんな悠長なことは言ってられなくて,とりあえず良さそうなことは全部やってみました。腰痛コルセット,ピップエレキバン,漢方薬,ビタミン剤,・・・などなどを試し,どれが効いたかは不明なのですが,やっと座れるところまで回復してきました。結局,「自然治癒力」,「日にちぐすり」が一番効いたのかもしれません。

というわけで,ずっと何もできないでおりました。行動記録を兼ねている「読書日記」も全く更新できませんでした。

でも何か書かないでいると,どんどん書くことができなくなっていきそうです。実際,書けなくなっているし,ソフトウェアのコーディングもどんどん忘れていきます。で,リハビリということで書き始めましたが,今回のお題が,情けない事に,「読めない本」です。

読めない本

読めない本が増えたのは図書館で本を借りて読むようになってからです。せっかく来たんだからと貸し出し上限の冊数まで借りるので,性が合わない本も借りてしまうからでしょう。でも単なる老化現象で難しい本が読めなくなっているだけかもしれません。

今回,紹介するのは読めない本の1冊です。この本を手にとったのは「人間はなぜ,あることを信じてしまうのか?」ということに昔から興味があったからです。同じ事実に接しても,全く相反する意見を持つのは何故か? なぜ宇宙人やUFOなど真偽の確認のしようのないことを信じる人がいるのか?(あるいは,信じないのか?),そして,それはどのような心の働きでそうなるのか?が知りたいのです。

一方,科学的な知識(例えば進化論や相対性理論)は,直観に反しているうえに一般の人には確認が難しいのです。にもかかわらず,(例外はあるものの)広く受け入れられているようです。それはなぜなのか。科学的知識が受け入れられている状況を安定して保つことは大事だと考えています。というのは,現在,大きな問題になっているパンデミックや薬害,気候温暖化などに適切に対応するためには,専門家ではない多くの人たちが科学的な知識や考え方を知っていることが重要になると思うからです。

また,私は技術に関する知識やスキルを伝えることでお給料をいただいていたので,勢いそういうことに興味を持つことになったのでしょう。

この本には,上のような興味に関連する考察が多く述べられています。でも,あまりにも文章が読みにくくて,読み進めることがなかなかできませんでした。 

ですから,この投稿では本書の詳しい内容の紹介はしません。詐欺師はどれくらい成功するのか? プロパガンダは本当に効果があるのか? 陰謀論を信じる人はなぜ信じるのか・・・などに興味がある方は読んでみる価値はあると思います。

さて,この本,(私には)わかりにくい文章が連続します。例えば次のような文章があります。

直観的に言えば、コストのかかるシグナルが機能するにあたって重要なのは、信頼に足るシグナルを送る人によってコストが支払われる点にある。(p.50)

直観的に言えば」とありますが,直観的には何を言ってるかわからない文章です。

「コストのかかるシグナル」とは「何かを伝えるための,手間ひまかけた行動」のことだろうと思います。「信頼に足るシグナルを送る人」というのは「“信頼に足るシグナル”を送る人」なのか「信頼に足る“シグナルを送る人”」なのかが判然としません。後者だとして解釈すると。この文章は,

手間ひまかけて伝えようとしたことが伝わるためには,伝えようとする人が信頼に足る人であることが大事です。

と言っていることになります(この書き換えた文章もわかりにくく,間違っているかもしれませんが)。そうであるなら,そのように書けばよいのに・・・。ひょっとしたら元の英語の文章で読んだ方がわかるかもしれません。本全体を通して,ずーっとこんな文章が続きます。

研究室の学生と英語の論文の読み合わせをすることがありました。技術系の,それも私の専門とする分野のものなので,数式の理解などは別にして,文章は不自由なく読めます。ところが,あるとき学生がweb検索の高速化に関する論文を選んできました。この論文は一読しても意味が取れなかったのです。特に難しい単語を使っているわけではないのですが,微妙に意味が異なっているためなのか,とにかく意味が頭に全く入ってこないのです。

このことは,読めない理由のかなりの部分は,読み手(つまり私の)予備知識の有る無しによるところが大きいことがわかります。

でも,それだけではないようです。本書「人は簡単には騙されない・・・」は,心理学や生物学の用語を使っているとはいえ,和訳で読んでいるので決してなじみのない意味のとれない単語があるわけではないのです。

次の文章は,筆者が「わかりにくい文章」の例を挙げている段落です。長いけれど引用します。

文章がわかりにくくなればなるほと、それたけ理解しようとする読み手の努力が必要になる。その結果、他のあらゆる条件が等しければ、不明瞭さはその文章を読み手にとって自己関連性の薄いものにする。一例をあげよう。「エアバッグが膨張するような衝撃が生じたとき、エアバッグの膨張装置は、過度の内的圧力が生じるような様態で作動する。その結果、膨張装置のケーシングが破裂して、金属片がエアバッグを突き抜け車内に飛び出してくる可能性がある。」(p.300)

和訳の文章が,硬めの熟語を使った,もったいぶった書き方になっています。これがわかりにくさの原因の1つでしょう。前半の「文章がわかりにくくなればなるほど,・・・自己関連性の薄いものにする。」は「わかりにくい文章は自分とは関係の薄いものとして受け取られる。」ということです。この主張は本書の中で複数の箇所で出てくる重要な考え方です。それが「わかりにくい表現」で訳されているのは皮肉です。

さて,この段落の後半で分かりにくい文章の例として挙げられている「エアバッグが・・・可能性がある。」も,もったいぶった表現ですが私には明瞭に理解できます。これはたぶん内容が技術的なものだからでしょう。このことからも,文章がわかりにくいかどうかは読み手の持っている知識や経験にも関係していることがわかります。(ですから,この本を読みにくと感じる理由は,私に知的な問題があるためで,心理学や認知科学の本を読んでいる読者なら楽に理解できるはず,という可能性は多いにあるります。)

好意的に解釈するなら,本書には,筆者の言うところの「反省的(reflective)な思考」を必要とする文章が多いためかもしれません。「反省的な思考」を必要とする表現の例としては次のようなものが挙げられています。

バットとボールの値段は合わせて1.1ドルである。バットはボールより1.00ドル高い。ではボールの値段はいくらか?」 

この問いかけに対しては普通の人は直観的には正しい解答が出せません。こういう計算に慣れていない人にとっては,ちょっと立ち止まって考えないと誤った答え(例えば「ボールは0.1ドル」)を導いてしまいます。このような「立ち止まって考える」ことを読者に要求する文章が続くと,確かに読みにくくなるでしょう。

なお,「反省的」という言葉は,心理学や教育学で使われている用語のようですが,一般の読者にはわかりにくいと感じます。どうしても漢字の熟語で書きたかったら「内省的」とか「熟考」などと訳した方が良いかもしれません。

伝わらない言葉で得をする人たち

いわゆる「人文社会系」の方達が書く文章に関して,私は昔から1つの疑惑というか仮説を持っています。それは「この人たちは必要以上にわかりにくい文章を書くことで何らかの利益を得ているのではないか」ということです。難しい文章で書くことのメリットは,次のようなのではいかと考えています。

  • 大した内容ではないが,難しい文章で書くと有難みが増す
    逆に,わかりやすい文章で書くと誰でも導き出せる内容だと軽んじられるかもしれない。身もふたもないが,これが一番ありそうだと考えている。
  • 難しい文章で書くと,訳のわからない人たちに絡まれない
    自分たちの学問的コミュニティに「知的レベルの低い」人が入ってきたり,論争をしかけられたりせずに済むかもしれない。多少,好意的な仮説。
  • 難しい言葉でないと伝わらないこともある
    これは高名な評論家の方の発言。一番,好意的に解釈するとこうなる。

もちろん,学問的な厳密さを求めると,どうしても回りくどい,わかりにくい文章になることはあります。わかりやすい文章だけで書いた論説は,ひっかかりがなく,読んだあと何も残らないかもしれません。読者にある程度「反省的な思考」を強いる文章が混ざっていた方が,深い内容が伝わる,ということはあるかもしれません。

特に,直観に反する結論が導き出される場合は,読者はどこかで反省的な思考をすることになります。ですから全く反省的思考を要しない文章だけで内容を伝えるのは難しいでしょう。

でも,人文系の書籍の論説のかなりの割合のものが,有難みを増し部外者が口を出さないようにするために,難しい文章にしているのではないかと見ています。文系で特に目立つと思うのですが,理科系・技術系の場合も同じことが言えます。

技術系の場合,伝えたいことが伝わらなかったら事故につながるし,作れるものも作れなくなります。実験科学の分野でも,論文を読んだ人が実験を追試するためには,再現性が大事なので,わかりやすい文章が求められます。とはいえ,一般の読者には知られていない業界特有の用語(ジャーゴン)をちりばめたりして書き手を実際より大きく見せることはよくありそうです。私の投稿だって,そのきらいはあると思います。

本書には,理解しにくい文章を書くことが大きな利益になった(と筆者が考える)例が幾つか挙げられていて,その最も成功した人物としてフランスの哲学者・精神科医のジャック・ラカンを挙げています。(あくまでも筆者のヒューゴ・メルシエの意見ですよ。)例として紹介されているラカンの文章は,以下のようなものです。

端的に言えば、自然の特異性は一つでなく、ゆえに論理的プロセスが持ち出せるようなものではない。自分が何か、つまり名づけられることからそれ自身を識別する何かに興味を持っているという単なる事実から自分が除外するものと自然を呼ぶプロセスによって、自然はそれ自体が非自然の混合であると認める以外のいかなるリスクも冒さない。(p.282)

端的に言って難解な文章です。この段落の文章だけでは全く理解できません。一部だけ切り出して批判しないで欲しい,前後の段落(あるいは書籍全部を)読めば理解できる,と主張されるかもしれません。そうだとしても,これだけ「論理的プロセスを持ち出せない」文章にはなかなかお目にかかれません。

 最終章から読むとよいかも

本書で主張されている内容を手っ取り早く理解したかったら,最終章(第16章 人は簡単には騙されない)から先に読むとよいと思います。本書全体の流れを頭に入れることができるからです。

この章の最後に,現在,世界で起きている様々な問題である,陰謀論の拡がり,党派の間,専門家と一般人の間の分断などに対して何ができるかについてヒントになる文章があります。

科学的理論は、そのほとんどが深く直観に反するにもかかわらず、社会のほとんどの階層に浸透している。しかも科学者を個人的に知っている人はほとんどおらず、相対性理論や自然選択による進化の理論などの科学的理論を真に理解している人となるとさらに少ない。直観に反する科学的な見方の広範な浸透は、科学的な営為が依拠している、欠陥はあるにせよ堅実な信用の基盤に支えられているのだ。(p.346)

この「信用の基盤」は,データの統計的処理,多様な被験者の確保,実験の数を増やす,利害関係の影響を避ける,後付けの正当化を避けるための仮説をたてる,などで保護され強化できると著者は述べています。それに加えて,他の研究者が検証できるような論文の公開,独立した研究グループによる追実験,研究の過程や成果の透明性を確保することなども必要だと思います。

このように築かれた信用の基盤により,一般市民と科学的な知識は結び付いている,しかし,この結びつきは直接的ではなく,複数のコミュニケーションのリンクによってつながっていて,その連鎖は弱い,と筆者は言っています。本書の最後の段落を引用しておきましょう。

人を説得するためには,すでに確立され長年維持されてきた信用,専門知識に裏づけられた見解の明確な表明,そして堅実な議論が必要とされる。正確ではありながらメディアなどの機関は、苦戦を強いられざるを得ない。信用と議論で構成される長い連鎖に沿ってメッセージを発し続け、その信頼性を保っていかねばならないからだ。奇跡的にもこの長い連鎖は、私たちを最新の科学的発見や地球の反対側で起こったできごとに結びつけてくれる。私は、この脆弱な連鎖を強化し拡張していく新たな手段が見つかることを切に望んでいる(p.346)

私も「連鎖を強化し拡張していく新たな手段」として何が使えるのか大いに興味があります。そして,その中で使われる文章は,わかりやすく工夫されたものであってほしいと考えています。

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「どけ 俺がやる」 敷島博士の狂気 [One of my favorite sayings.] https://tamlab.fc2.page/category-books/category-books-art/1980/ https://tamlab.fc2.page/category-books/category-books-art/1980/#respond Sun, 20 Aug 2023 15:00:00 +0000 https://tamlab.fc2.page/?p=1980 横山光輝:鉄人28号 第1巻,小学館(2017) より (「鉄人28号」連載開始は1956年)

これまで読んだ物語の中から「一度は言ってみたいセリフ」や「好きな言葉」を紹介していきます。

その第1回です。でも,のっけからタイトルにしたセリフ「どけ 俺がやる」は作品では使われていなかったものでした。

私が間違って覚えていたのです。ごめんなさい。読み直してみたら正しくは,

どけ わしがやる

でした。「」ではなく「わし」なんですね。

p.57より「記憶スケッチ」した

マッドサイエンティストのかがみ

このセリフは,レギュラーの登場人物,敷島博士のものです。そのシーンで敷島は旧日本軍の秘密兵器開発のリーダーを務める科学者です。日本に不利になっていた戦況を逆転する可能性のあるロボット兵器「鉄人」の開発を進め,完成まであと一歩のところまでこぎつけます。

ロボットの起動には非常に高い電圧をかける必要があるらしく,敷島の指示を受けた研究所のメンバーは徐々に印加電圧を上げていきます。しかし,一向に起動する気配を見せないことにいらだった敷島が「もっと電圧を上げろ!」と部下に指示します。「これ以上は危険です」という部下を押しのけ,敷島は自らレバーを操作し電圧を最大まで引き上げます。

このときのセリフなのです。

このセリフの直後に,ロボットは煙を吹き出しはじめ,ついには大爆発を起こしてしまいます。

アニメ版や後期のコミック版では常識を備えた父親的な立場の人物として描かれている敷島です。しかし,初期タイプの敷島は,見事な「マッドサイエンティスト」っぷりを見せています。髪型もワイルドです。

なお,「もっと電圧を上げろこれ以上は危険です→でも 電圧を上げる 大爆発 というパターンはマッドサイエンティストものではお約束の展開のように思います。「鉄人28号」が最初ではないはずなので,元ネタがあるなら知りたいです。

私も在職中は温厚な教員の役割をつとめてきた(つもり)なのですが,もっと自分の興味を優先して暴走しても良かったのかなと感じています。(いや,十分暴走していた,と言われるかもしれませんが。)

「どけ わしがやる」と叫んだときの敷島は20代後半から30代前半の年齢に見えます。部下の研究員にはもっと年配の人も描かれています。若い優秀なリーダーだったのでしょう。

30代くらいの年齢という印象があるので,一人称に「わし」ではなく「」を使っていたはずと思い込んでしまったのでしょう。昭和30年代の物語の世界では,30代の男性は今の時代の60代70代の人のようなしゃべり方をしていたのかもしれません。

起動には高電圧が必要だった

このシーンを見返すと,起動のためにハードウェアを爆発させるほどの高電圧を必要とするシステムってなんなんだよ,と突っ込みたくなります。ロボットの起動に高電圧を必要とするという描写は手塚治虫の「鉄腕アトム」にも見られます。

おそらくこれは,横山も手塚もロボットを単なる機械ではない生命の宿った存在として描いていたからだろうと推察しています。

横山が鉄人28号は映画の「ゴーレム」(1915)を参考にしたと語っている記事を読んだことがあります。この作品の「笛で操られる巨大な人型の怪物」というコンセプトが基になっているのだと思います。また,映画版「フランケンシュタイン」(1934,ボリス・カーロフ主演)の影響があるという記事もあります。映画版のフランケンシュタインの怪物は,雷によって発生された高電圧により生命を吹き込まれます。

「フランケンシュタイン」では,神ならぬ人間が生命(しかも知的な)を創造する,というキリスト教の倫理では大いに問題のある行為を描いています。ですから,常軌を逸脱した強大なエネルギーを使ういう演出が必要になったのでしょう。人の作ったテクノロジーでは生命創造には至れず,神の意志であり人為を越えた自然の力の象徴である雷の力を借りることで怪物は誕生します。

「鉄人28号」は,人間が科学の力で生み出した創造物により破滅する,という「フランケンシュタイン・テーマ」の流れも汲んだ作品と考えられます。実際,物語の中ではフランケンシュタイン・テーマに沿ったエピソードが複数見られます。さらに,28号の前に造られたという設定の27号のデザインは,首の両側にボルトのような突起物がある点などボリス・カーロフ版の「フランケンシュタインの怪物」にならったものになっています。(なお,敷島達が爆発させてしまったロボットは「28号」と呼ばれていますが,外観はこの27号と同じです。)

いも悪いもリモコンしだい」の機械として描かれている鉄人も,読者の共感を得るためには,生命や意識を感じさせる必要があったのかもしれません。

兵器としての鉄人

とは言え,鉄人は「兵器」であり「機械」であることが強調されています。鉄人28号は,開発開始から15年を経て完成し,雷の高電圧を使って起動されます。登場人物の一人が「人間の作れないような何千万ボルトもの高圧電気」が必要だったのだろうと語っています。雷の電圧は数千万ボルトから一億ボルトに達するということです。我々が発生できる電圧の上限は数百万ボルトらしいので,それよりずっと高いことになります。

物語世界では鉄人はあくまでも兵器として作られた機械という扱いになっていることは,この登場人物の言葉からも裏付けられます。生命創造というおどろおどろしい印象は背後に隠れ,雷を使ったのは,あくまでも技術的な理由からであると説明されています。

また,これも良く知られている話ですが,横山が28という数字をアメリカ軍の爆撃機B29の「29」から採ったいう説があります。横山は圧倒的な技術力と容赦のない物理的暴力の象徴と感じていたB29のイメージを鉄人28号に投影していたのでしょう。

「SF考証」してみよう

起動の際の高電圧は鉄人に意識や生命を感じさせるためのギミックだという仮説は一旦置いて,「SF考証」の真似事まねごとをしてみましょう。SF考証というのは,物語世界の中で描かれている現象や技術に対して「つじつま」のあう説明を試みるという,まあ「お遊び」ですね。

テーマは,「なぜ高電圧を必要としたのか?」です。高電圧を印加することでシステムは非可逆的な変化をしているようなのですが,その変化とは,いったい何なのでしょうか?

記憶装置への書き込み?

通常運転における電源電圧より高い電圧を必要とする例としては,半導体LSI内部の不揮発性メモリにプログラムや設定データを書き込む動作があります。電源電圧5Vに対して,12Vとか24Vを必要としていたこともあります。フローティングゲートに電荷を注入するために高い電圧が必要なのです。物語世界のロボットがどのような記憶装置を使っていたのかは語られていません。しかし,数千万ボルトを必要とする書き込み動作というのは無理のある設定です。

動力源?

もう少しもっともらしいのは,雷の電力や高電圧をロボットの動力源として利用した,という解釈です。物語の中で鉄人の動力源や力を発生する機構(アクチュエータ)については全く触れられていません。内燃機関や原子炉による発電装置を使っているようではありません。給油や充電しているシーンもありません。一回のエネルギーチャージで相当の期間動き続けたようです。

落雷の電力は一般家庭の消費電力の数か月分という試算があります。物語世界では避雷針から取り込んだ雷の電力を蓄え取り出すことのできる効率のよいシステムが開発されていた,と解釈してはどうでしょうか。あるいは内蔵された高効率の蓄電用素材(例えば常温常圧超伝導体)を機能させるために極めて高い電圧が必要だった,とかです。

もちろん,そのような技術は現代の私たちも持っていません。しかし物語の世界では「高電圧と高電流を使うことで高効率の電力の蓄積と取り出しを可能にする技術」があった,とすれば,説明は可能です。

なお,以上のような考証を作者の横山はしていない,というか意識して避けています。鉄人の寸法や重量に関しても,同じような態度です。SF作品としてのリアリティは損なわれるかもしれません。でも,エネルギーの問題も大きさも重さも,作者のそのときの気分次第です。物語の描写の自由度は高くなります。

スモークテスト

試作したハードウェアやソフトウェアを始めて起動して,基本的な動作確認をすることを「スモークテスト(smoke testing)」と呼ぶようです。電子工学や電気工学でのスモークテストやパワーオン・テストという用語は、開発中の回路を初めて電源に接続することを指します。

私が在職中に扱った回路のほとんどは,電源電圧5Vとか±12Vといった弱電回路でした。例外として静電型スピーカ用に400Vの直流電源を作ったことが一回あります。それらの経験の中で,本当に煙が出るスモークテストになってしまったことは1,2回くらいで,電源投入時に煙が出たケースはありませんでした。煙が出たときは,回路チェックのため接続したプローブのピンのグランドの配線を間違ったことが原因でした。この煙は,ほとんどの場合,発熱した抵抗器のコーティングの燃焼によるようで,独特の臭いがします。

実装した回路に初めて電源を投入するスモークテストの際は緊張します。ICの電源ピンへの接続間違いや,出力端子のショートなどがあると部品は破損する可能性が高いからです。電源についている電流計の値に注意しながら,慎重に行います。開発リーダーとしてのプレッシャーがあったとはいえ,敷島の行動は軽率だったと言えるでしょう。

レバーが気になる

ところで,敷島が操作した電圧制御レバーは,押し下げるほど高い電圧が発生するようになっています。ですから,図(記憶スケッチで描いたものです)に示すように,敷島はレバーを目いっぱい押し下げています。これは敷島の感情の高ぶりと腕を振り下ろす動作が一致しているので,漫画の表現としてはアリなのかもしれません。

しかし,制御レバーの設計としてはどうなの?と,細かいところが気になってしまいます。電圧を上げるときは,レバーも上げるように設計しておくのが適切なのではないかと思います。さらに,レバーを下げるほど電圧が高くなる設計では,地震や外部からの攻撃によりレバーの上に人や物が倒れ掛かったときに,高電圧が発生しっぱなしになり,非常に危険です。(レバー水栓の規格は,1997年1月の阪神淡路大震災が契機になって,レバーを上げたときに開く「上げ吐水」に統一されたそうです。)

敷島は自分の邸宅内に研究開発環境を整備しています(うらやましい!)。敷島には操作用のレバーの設計を是非見直して欲しいです。

禁じられた言葉

「どけ俺 がやる」にあこがれてしまうのは,この言葉に私の中のマッドサイエンティストが反応しているためでしょう。(“マッド”がついてはいますが,自分を“サイエンティスト”と呼ぶのは,何だか厚かましいかなあという気もしますが。)

でも,この言葉は,教育者の立場としては口にしてはいけない言葉です。結果が成功でも失敗でも,部下たちから,自分で判断し結果を受け止めるという経験のチャンスを奪ってしまうことになるからです。

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牛車で行こう! 平安貴族と乗り物文化 https://tamlab.fc2.page/category-materials/1964/ https://tamlab.fc2.page/category-materials/1964/#respond Fri, 14 Jul 2023 06:08:34 +0000 https://tamlab.fc2.page/?p=1964 京楽真帆子:牛車で行こう! 平安貴族と乗り物文化,吉川弘文館 (2017)

平安貴族が日常使っていた乗り物「牛車ぎっしゃ」についての研究を一般の人にもわかりやすいようにまとめた本です。出版されてすぐの頃に図書館の新刊書のコーナーで手に取って「面白そう!」と借りて来たのが出会いです。

本書の「はじめに」に紹介されているように,牛車は平安時代に流行し中世後期には衰退してしまった乗り物です。ですから,牛車に関する知識なんて現代に生きる人にとっては,知らなくても実用上何の支障もないものです。

それでは筆者がなんで牛車についての研究をしたのか,と言うと,

失われた日常生活。その一つである牛車について知りたい。こうした思いから,私は牛車の研究を始めた。(p.154)

ということです。「知りたい」というのが研究を始めた動機です。なお,牛車に関しては「故実研究の他に交通史や都市史,王権論にまで発展した膨大な研究がなされている」ということです。「知りたい」と感じた人は筆者の他にもたくさんいるようです。

それでは,このような研究は,実用的には何の役に立つのでしょうか? 筆者は「古典文学を読み解くためには,牛車に関する知識は必須である。(p.1)」と書いています。でも,高校の授業なんかで牛車について教わった記憶はありません。

私は高校のときの試験の点数では,古文や漢文の方が数学や物理より上でした。自慢しているわけではありません。理数系のクラスにいたのに数学や物理の点数が古文・漢文より低かった,ということですから。試験で点数が取れたのも,文法に関する体系的な知識を身に付けていたわけではなく,知っている単語を手がかりにつじつまを合わせたストーリーをでっちあげる方法が,たまたま当たっていただけ,なのです。

入試には役立った古文や漢文ですが,高校卒業以来その知識を使う機会は全くありませんでした。でも,だからと言って「理系の人には古文や漢文の知識は不要」などとは決して思いませんでした。

乗り心地は良くなかった

牛車の話にもどします。その乗り心地はどうだったのでしょうか。イギリスのチャールズ国王の戴冠式で使っていた馬車(1762年作製)が物凄く乗り心地が悪いということでした。牛車ならスピードもそれほど出ないし乗り心地は悪くないかなという印象を持っていました。しかし,p.17に紹介されている「今昔物語集」巻第二十八第二話のエピソードを読むと,これはダメだと思いました。

加茂の祭りをどうしても見たいと考えた源頼光の家来三人が,女性専用の女車おんなぐるまに見せかけた牛車に乗り込んで出かけます。ところが,三人とも車酔いしてさんざんな目に会う,というお話です。

牛車にも車酔いがあるんだ・・・!。私は小さいころから車酔いがひどくて乗り物全般を苦手としています。牛車が使われていた時代に生きていたら,えらい難儀をしていたでしょう。(そもそも貴族として生まれないと牛車には縁がないはずですが。)

読者を「なったつもり」にさせる

本書を読んでいて,学術的な成果を一般の読者に読ませるための優れた工夫がそこかしこにあると感じました。

タイトル(「牛車で行こう!」)もそうですし「はじめに」に「ドライブ前の点検」という洒落たサブタイトルを付けたりすることからわかるように,様々な箇所で,読者が平安貴族の視点(もちろん牛車に関して)を持てるような工夫がされています。

「まずはどの車に乗るのかを決めよう」で始まる第一章も,カンヌ国際映画祭で賞を得た映画「地獄門」のシーンを出すことで興味を引き付けるようになっています。先に挙げた今昔物語の中の説話も,女車に偽装する例として紹介されています。

本書は,どんな車があるのか(第一章 車を選ぼう)を紹介し,実際に乗って移動して降りるまでのシミュレーションをし(第二章 牛車で行こう!),乗らないときもあるのか(第三章 歩くか乗るか?)について考察します。さらに,身分の高い人しか乗れない超高級車の枇榔毛車びろうげのくるまについて触れ(第四章 ミヤコを走る),同車する人達の人間関係について論じて(第五章 一緒に乗って出かけよう!)・・・と進行していきます。

ストーリー仕立てにしたり質疑応答の形で説明したりして,扱っている対象や状況に対して読者が当事者であるかのように感じさせるやり方は一般向けの技術書でも有効で,よく見かける方法です。

松平定信と輿車図考

江戸幕府の老中を務め幕政改革を主導した松平定信(1759~1829)が輿車図考よしゃずこうという輿こし(人が担いで移動する乗り物)や牛車についての研究書の執筆と編纂をしていたことを本書で初めて知りました。政治家として知られている人物ですが,老中を退いた後に,多くの文化的な活動をしていて,その1つに,この輿車図考(1804)があります。

牛車研究の金字塔」とまで呼ばれていて,膨大な文献から輿や牛車に関係する文章を抜き出して編纂し,さらには復元図も付けられているものなのだそうです。復元図があるというのは資料としての価値は非常に高いと言えます。牛車が出てくるシーンのあるTVドラマや映画を作る際には,なくてはならない資料になるでしょうね。実際,松平定信が輿や牛車に興味を持ったのは,平家物語の絵を作ることを企画していたためらしいのです。

本書でも輿車図考からは多くの引用があります。200年の時を隔てて研究が引き継がれていくのは素敵だなと感じました。

「源氏物語」の牛車

本書の最後の部分(第六章第3節)では,源氏物語の中での牛車の描かれ方を取り上げています。筆者は「輿車図考の補遺を作成してみよう」と書いていますが,第五章まで読んで得られた知識の「おさらい」や「応用問題」にもなっていて,こんなところも上手だなあと思います。源氏物語の幾つかのシーンについて,どんな種類の車に乗り,中はどんな様子だったのか,同じ車に乗る人たちはどんな人間関係なのか,を確認していきます。

この節を読むと,本書冒頭の「古典文学を読み解くため牛車に関する知識は必須」という文章も,まあ,何となくだけど,そうかもしれないと思えてきます(出来の悪い読者でゴメンナサイ)。

また,源氏物語は,登場人物の関係性をずいぶん細かく描写しているのだなと感じました。キャラクター相互の関係性の描写を重視する点が現代の少女漫画に通じるものがあります。当時の読者にとっては少女漫画みたいな感じでとらえられていたのかもしれません。

役に立つ研究って何だろう

本書は私にとっては,とても面白かったのです。でも,このような研究は「役に立たない」という理由で研究費が切り捨てられてしまうのではないかと心配になりました。

個人的には,研究者が面白いと感じて他にやっている人が少ないテーマなら,研究する価値があると考えています。でも世間一般のお財布から出すわけですから「役に立たない」と断じられてしまったら,研究費的にはきびしいでしょう。

この「役に立つか立たないか」でお金の出し方を判断する風潮は最近,猖獗しょうけつを極めているようです。国の教育に関する審議会の委員が「二次方程式などは社会に出ても何の役にも立たないので追放すべきだ」という意見を紹介し,その後二次方程式の解の公式が中学校課程で必修から外された例もあります。国民の全てが学ぶべき中学校課程でさえ,役に立つか立たないかという個人の意見(感想?)に影響されたかもしれないのです。大学での研究に対して「役に立つか立たないか」という基準で判断が下されてしまうのは,いたしかたないのかもしれません。

でも,「失われた日常生活」を知るための研究は国にとっても役に立つ成果をもたらす,と主張したいのです。なぜかと言うと,そのような研究の成果は国民の一人一人が心を拡げることを大いに助けるからです。国民がきちんとした研究成果に基づいて広い視野で考えるようになることが都合が悪い,と考える為政者はいないはずですから,是非とも考慮してもらいたいです。(何しろ,心を拡げ空間や時間の異なる世界をイメージする能力はあの「ラーマーヤナ」の中で,人間を人間たらしめているとまで言われているのですから。)

最近は,社会的課題について論ずる際に「伝統を守れ」と主張する声をよく聞きます。その「伝統」が現代の私たちの基準で見たとき,まっとうなものなら,是非守っていくべきです。そして,その伝統がいつ生まれ,生まれた時代の人たちがどのように生活していたか,どのように伝えられてきたかを,学問的に明らかにし共有しておくことが必要なのではないでしょうか。

そして,松平定信のように源氏物語を七回も書写しろとまでは言いません。教育や研究に関するお金の出し方に関わる人たちは,せめて研究者たちの「知りたい」という気持ちを理解できる人たちであってほしいと思います。

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奇跡のフォント・・・障害は人ではなく社会にある https://tamlab.fc2.page/category-materials/1811/ https://tamlab.fc2.page/category-materials/1811/#respond Mon, 29 May 2023 08:49:56 +0000 https://tamlab.fc2.page/?p=1811 高田 裕美:奇跡のフォント 教科書が読めない子どもを知って―UDデジタル教科書体 開発物語,時事通信社; New版 (2023)

UDデジタル教科書体」というフォントが世に出るまでの経緯について開発の中心となったフォントデザイナー自身が書いています。このフォントは2016年にリリースされ,Windows OSに標準でバンドルされています。

いろいろなことを考えさせられる本でした。私にはうまくまとめることができないので,(ほぼ)書いてある順に紹介していきましょう。

なお,フォント名の“UD”はUniversal Designの略語で「文化・言語・国籍・年齢・性別・能力の違いによらず,より多くの人が使えるように配慮されたデザイン(p.11)」のことです。

『これなら読める! 俺,バカじゃなかったんだ!』(p.13)

ディスレクシアと診断されている小学生の子供が,いつも使っている電子教材のフォントをUDデジタル教科書体に変えてみた際に発した言葉です。ディスレクシア(dyslexia)とは読字障害とか識字障害などと訳されていて,学習障害(Learning Difficulty, LD)の一種です。ディスレクシアの人は,知的な問題がないのに,文字を読んで意味を把握することが苦手なため学習が困難になってしまうのです。このエピソードを筆者自身がツイッターに投稿したところ2万件を超えるリツィートがあったそうです。

これをを読んだときは,フォントを変えただけで文章が読めたり読めなかったりするんだろうか? と感じました。

障害は,人ではなく,社会にある。(p.14)

最も強い印象を受けた言葉です。生きる上で困難さや不便を感じている人たちは,多くの場合,少数者・社会的な弱者であることが多いでしょう。そして,その人たちの感じる困難さは「当人の問題」として扱われ,自己責任で解決すべきものとして扱われているようです。

しかし,変えるべきは社会なのでは? 社会を構成する一人一人にも(つまり私にも)責任があるのでは? ということが問いかけられています。

私とフォント

私「ヤじるし」は,自慢じゃないですが教材のデジタル化には早くから取り組んでいた方でしょう。講義を始めたころに主流だったドットマトリックス式のプリンタは,教材作成には全く向いていないので,コピーと切り貼りというアナログな手法が資料作りの中心でした。

しかし,Apple社のMacintoshが発売されるとこれを導入し,Adobe社のアウトラインフォントとレーザプリンタを使ったDTP(Desk Top Publishing)で配布資料を作成できるようになりました。これでフォントと作れる資料の選択肢がぐっと広がりました。(沖電気さんから発売されたばかりのLEDプリンタを寄付していただいたのが,とても助かりました。遅くなりましたが,感謝いたします。ありがとうございます。)

講義中に使う視覚教材は,配布資料よりもデジタル化が少し遅れ,レーザプリンタで作ったOHP(オーバヘッドプロジェクタ)の時代が続きました。その後,液晶プロジェクタが出始めたので,やっとPowerpointを使った現在の方式に移行できました。

私の作成したPPTの資料では「板書」として受講者に書き写してもらう文章のフォントを手書き風のものに変えてあります。これは,書き写す部分を区別しやすくするためですが,もう一つ狙いがありました。

それは,「書き写す文字を少し読みにくくすると内容の定着率が向上する」という研究結果についての記事を読んだことがあるからです。ただし,この研究結果の追試や再現性についての検証はしていません。学生の反応は「読みにくい」という指摘が若干ありましたが,板書を書き写す時間を十分取ることで特に問題にはならなかった,と理解しています。しかし,今回,本書を読んでから,何割かの学生さんには苦痛を与えてしまったかもしれないと反省しています。

PPTスライドで使っているフォントの例 (「基本的考え方」をUDデジタル教科書体で表記)

フォントを作るのは大変だ

PPTなど講義資料の手書き風フォントには,主に「あくあフォント」を使っています。趣味で作成されたフォントで今は開発は停止していると思いますが,非常に多くの場面で使わせていただきました。作者の方には,この場を借りて御礼を申し上げます。

私自身の手書き文字のフォント化も試みたのですが,すぐに諦めました。文字数が多すぎるのです。それでフォント作りは大変なんだろうと漠然と思っていました。しかし本書を読むと,フォント作りが物凄く大変なことがわかりました。文字数の多さだけが問題ではないのです。私のような根性無しにはとても務まるものではないです。

例えば写植用のフォント原図では,錯視で斜めに見えることを見越して,横線の角度を水平から少しずらしています。ところがこれをデジタルフォント化すると,表示や印刷のためラスタライズするときにジャギーが目立ってしまうのです。(写植の前から使われていた活版印刷の文字原盤はインク面を紙に押し当てた際の滲みを考慮して少し細く作ってあるので,そのままでフォントにすると細く見えてしまうという問題もあったそうです。)

その他,明朝体の文字の止めのところに置く三角形の“ウロコ”の大きさのことなど,考慮すべきポイントが非常に多いのです。とにかく,髪の毛一本の幅や高さの違いでも,バランスが崩れて見えるというのです。

フォントの部位の名称

このためフォントデザイナーである筆者は,文字パーツの髪の毛一本の幅や位置の違いにも敏感になり,小説を読んでも気になるところが多すぎて内容が頭に入らなくなってしまうことがあるそうです。(ひょっとして,ディスレクシアの方が読んだ文字を理解できなくなるときは,こんな感じなのかもしれない,と思いました。)

教科書体・・・文字の書き方を教えるためのフォント

さらにさらに,UDデジタル教科書体フォントは文字の書き方を教え学ぶために使うことを目的としていて,これがまた問題を難しくしています。文字の書き方を学ぶためには,止めや払いなどがわかるように,フォントの太さを変化させる必要があります。ところが,このような文字幅の変化はジャギーの原因になります。しかも,ディスレクシアの人達の中には文字の端が尖っていることが気になって文字から言葉・文章への変換がうまくできない人がいるというのです。

資料作成のためいろいろなフォントを試していたとき「教科書体」というフォントの一群があることを知りました。でも「何に使うのかわからないけれど,あまり面白みのないフォントだなあ」としか感じなかったのです。しかし,児童に文字の書き方を教える現場では欠かせないものらしいのです。肢体不自由の児童も,下の図のような,手の動きまで表現までした書体を使って「ストーリー仕立て」で説明すると覚えてくれやすいそうです。

教科書体を使って文字を教える 本書p.131の図を模写 

暗黒の時代

筆者がフォントメーカーの株式会社タイプバンクに就職した1984年は,私が職を得た年でもあります。年齢は私の方が上なのですが,社会に出てからは同じ時代を生きてきたといってよいでしょう。ですから,本書に書かれている内容の技術的背景や時代の雰囲気は,読んでいてとても他人事ひとごととは思えないのです(錯覚かもしれません,たぶん思い込みもあるでしょう)。

タイプバンク社の経営は立ちいかなくなって社員全員が解雇され,筆者は株式会社モリサワに移籍します。多数の社員を抱える企業では,効率や開発コストの優先度は高くなるのでしょう。モリサワでは,UDデジタル教科書体フォントは教育関係者に高く評価されていたものの少数者しか必要としないニッチな商品として扱われていたようです。このため,フォントのデザインの細かなところまでこだわる筆者の立場は,だんだん苦しくなってきます。

この,筆者が「暗黒の時代」と呼んだ時期を書いた部分は,読んでいてつらく,息ができないような気持ちになりました。

逆転

しかし,筆者の仕事を見守ってくれている人もいたのです。その一人であるモリサワの常務取締役を務めていた方に筆者が直談判したことから事態は動き始めます。そして2016年6月にUDデジタル教科書体がリリースされることになります。

高く評価されていたフォントであることや筆者の熱意や努力を知っている人がいたことが結果につながったことは確かでしょう。でもそれだけでは不十分で,障害者差別解消法の施行が2016年だったことが大きかったようです。この法律により「公共の場での合理的な配慮の提供」が官公庁や役所,学校の現場で求められるようになったのです。

私はここから,ビジネスで社会的課題にアプローチすることの重要性を学びました。例え利用シーンやターゲットが限られていても,それが社会的課題を解決に導くものであれば必ず反響はある。(p.154)

企業や大学の役割

UDデジタル教科書体の開発では,大学の研究者も大きな役割を果たしています。 

「障害者支援」に参入してくる会社や人は多いけれど,地道な努力が必要な割に利益にならない実情を知ると投げ出してしまうそうです。UDと名乗る以上は「誰でも使える」ことのエビデンスを作るための手間のかかる作業が不可欠になります。コストのかかる検証作業にマンパワーを割くことは企業としては難しいでしょうし,開発した製品を使って利益を得る企業だけで検証をすることには問題があるかもしれません。企業から独立した立場の大学の研究者が貢献できることは多いはずです。

社会的課題の解決を目指す製品は,社会的責任を自覚した企業人だけではなく大学の研究者が果たす役割が大きくなるだろうと感じました。

本当の多様性って何だろう (p.177)

UDデジタル教科書体フォントは読みにくい,好きじゃない,と感じる人もいるそうです。選択できるようにしておけば良いのでは?と思って読んでいくと,筆者は,それでは互いの多様性を認め合う社会になるのだろうかと述べ,次のような言葉を投げかけてきます。

「自分はこれが好きだから,ほかの人が何を選んでも関係ない」

「あなたが何を好んで使いやすいと思うのは勝手だけど,自分の知ったことではない」

「あなたのことには口をださないから,自分のことも何も言うな」

 これは本当に多様性でしょうか。

 互いに認め合っている社会だと言えるでしょうか。

 もし全員がそうなれば,少数派が抱えている困難は,いつまでたっても社会に理解されることも,改善されることもないでしょう。 

 むしろ「多様性」という言葉が,弱者への無関心を肯定する便利な隠れみのになってしまうのではないか。 (p.179)

みんながやりたいことを勝手にやればよい」という状況は多様性の尊重にはつながらないということでしょう。みんなが勝手にすれば,いつまでも弱い人は弱いままです。弱い立場にある人達が少数であっても,不便だ不公平だと感じていることを口にだせるようにすることが第一歩で,好き嫌いは別にして,他人の口や自分の耳を塞ぐことはせず実態を知ることから始めなければならない,ということでしょう。

(私の)課題

まとまりのない文章になってしまいました。以下は,私が感じた課題の一部です。

  • 読みにくさ/読みやすさを決めている認知的な仕組みは?
    UDディジタル教科書体フォントがロービジョンやディスレクシアの人たちにとって読みやすいフォントであることは,他のフォントとの理解度の比較テストなどで定量的な検証がされています。しかし「なぜ,このフォントだと文字列を文章として理解できるのか(あるいは,できないのか)」を人間の認知の仕組みまで考慮して明らかにされてはいないようです。読みにくさ/読みやすさに人間の認知がどのように関わっているかという仕組みがわかれば,より有用な対応ができるような気がします。
  • 大学の教育ではどうだろうか
    在職中には,数式を見てもすぐに意味が理解できない学生が結構多いと感じていました。数式のフォントが関係しているのかもしれません。
    板書をノートに書き写す時間も学生によって大きな差があります。(全員が書き写してから次に進むようにしていましたが,速く写せる学生には不満を持つ人もいました。)
    上に述べたような差異が認知システムの特性が原因で生じているとすれば,問題を抱えている学生に「やる気を出せ」,「練習の時間を増やせ」というだけでは効果が少ないことになります。また,このような学生は,自己責任で何とかしようと考えたり,わからないことを言い出せなかったりしているのかもしれません。
  • 少数派への配慮は多数派の不利益か?
    一人でも不利益にならないようにしようと思っても,技術や施策による問題解決には,最後はコストの壁が立ちはだかります。少数派や弱者に配慮した社会を作ることは多数派にとって不利益になり,それは全体にとって不利益になると感じる人が多いかもしれません。
    コストや,特性の異なる集団間の対立が関係してくるので,すぐには正解の見いだせない課題です。

上に述べた3つ目の課題に関しては,p.154でも述べられているように「少数者に配慮した技術や施策は,一見コスパが悪いように見えても,社会的な課題を解決するなら全体の利益になる」と考えています。ポイントは「社会的な課題の解決」ですね。

また,「多数派」とみなされている集団の中にも,自分が当然受けるべき利益を受けていないという不満や不安を感じている人たち(実は弱い立場の「隠れ少数派」?)もいるはずです。そのような人たちへの配慮も必要になるでしょう。

なお「少数者への配慮が全体の利益につながる」と書きましたが,個人的にはもう少し悲観的で,「人を大事にしない社会システムをそのままにしておいたら,少数派も多数派もいずれはひどい目に合う」と心配しています。この辺りの話に関連して「確率的因果応報説」とでもいうべき仮説を持っているのですが,それを紹介するのは別の機会にしましょう。

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「ランチェスター戦略」 は使えるか? https://tamlab.fc2.page/category-books/category-books-science-and-technology/1503/ https://tamlab.fc2.page/category-books/category-books-science-and-technology/1503/#respond Sat, 11 Feb 2023 06:58:27 +0000 https://tamlab.fc2.page/?p=1503 福田 秀人:ランチェスター思考 競争戦略の基礎,東洋経済新報社 (2008)

タイトルは短くしすぎました。正確には,『「ランチェスター戦略」は工学や教育の分野でも使えるか?』です。

ランチェスターの法則とランチェスター戦略

「ランチェスター戦略」とは1972年に日本で提唱された「競争的な市場での販売戦略」です。ランチェスター戦略に関する書籍は1970年代から次々に刊行されてミリオンセラーになり,実業界から広く支持された,ということです。

本書の刊行は2008年です。昨今の経済状況を考えると,ランチェスター戦略という販売戦略に対する評価も変わってきているだろうし,内容もアップデートされているだろうと思います。 販売戦略としての妥当性は私には判断できないです。(経済とか経営という分野は全くの素人で,「お小遣い」の管理すらまともにできない人間なので・・・。)

しかし2008年に刊行された本書を読む限り,工学や科学技術分野での問題解決にも役に立ちそうなことが多く書かれていると感じました。こういう本を読んでみようと思えるのは,図書館のよいところかもしれません。

ランチェスター戦略は,F.W.ランチェスター(Frederic William Lanchester)が1916年に提唱した戦闘における兵力と損失に関する法則(というか仮説)に基づいています。この法則は,日本では「ランチェスター法則」と呼ばれ,競争戦略論として発展・普及したそうです。戦争・戦闘という,殺し殺されるという状況を経営に当てはめることが妥当なのか,という批判は当初からあったようです。

本書によると,ランチェスターの法則は以下のようなものになります。

①ランチェスターの一次法則(一騎打ちの法則):
一騎打ちの場合、武器の性能が同しなら、戦闘力は兵力(兵士の数)に比例する。
*同能力の兵士が10人対7人で戦えは、少数側が全滅した時、多数側は3人生き残る。
②ランチェスターのニ次法則(集団戦闘の法則):
互いに相手の部隊に無差別に発砲する集団戦闘の場合、武器の性能が同しなら、戦闘力は兵力の2乗に比例する。
*同性能の機関銃が10丁の部隊と7丁の部隊の戦闘では、戦闘力は100(10の2乗)対49(7の2乗)となる。結果、7丁の方が全滅した時,10丁の方は,7丁以上が生き残る({\normalsize \sqrt {100-49}= \sqrt {51}} ≒ 7)。
これらは、「集中の威力、分散の危険」と、「兵力劣勢側が、優勢側に勝つ条件と、いくらがんばっても勝てない限界」を示す。(p.16)

戦闘における法則だから当然ですが物騒なことが書いてあります。相当に簡略化した数理モデルから導出された結果のようです。でも,このシンプルなモデルから,集団戦では戦闘の結果に及ぼす兵力の影響は線形ではなく非線形で効いてくる,という大事なことがわかります。

田岡信夫は,1972年に,このランチェスター法則に基づく次のような経営戦略を提案しました。

①弱者の戦略:強者と正面から戦うのを避け、局地戦、接近戦を挑む。
②強者の戦法:弱者との接近戦を避け、間接的、遠隔的な確率戦を挑む。
〔注〕田岡は軍事用語の集団戦闘を確率戦と読み替えた。(p.16)

そして,この基本的な考え方に基づいて経営に関する様々な問題に対応するための戦略(やるべきこと,やってはいけないこと)を提案しています。特徴としては,わかりやすい数値目標を設定していることです。例えば,市場占拠率の目標数値モデルというのが提案されています。

市場占拠率の目標数値モデル
①上限目標値 74%:絶対的な独走状態。
②安定目標値 42%:安定的な強者の位置。独走態勢に入る。
③下限目標値 26%:弱者と強者の境目。トップになることもあるが不安定。
④上位目標値 19%:弱者のなかの相対的強者。伸びるか、落ちるか不安定。
⑤影響目標値 11%:存在がマーケット動向に影響を与え、注目される。
⑥存在目標値  7%:存在が競合社として認められる。
⑦拠点目標値  3%:存在自体が無視されるが,なんとか存在できる。(p.15~16)

有効数字は2桁もいらないだろうと突っ込みたくなりますが,わかりやすいことは確かです。市場の3/4(75%)を占拠すれば圧倒的な一強になれる,何とかトップと互角に渡り合うためには1/4(25%)は確保したい,・・・などと考えればよいわけです。

戦いと戦略

本書もそうですが,経営戦略は軍事戦略をお手本にしたものが多いような気がします(「ヤじるし」の個人的な感想です)。経営者は「戦い」が好きなのかもしれません。

本書では戦争の定義として「一種の暴力行為であり,その旨とするところは相手に我が方の意思を強要するにある。」という言葉を紹介しています。これに対しビジネスにおいては「戦いとは,自らの意思の実現を妨げる障害を克服するための活動である。」と再定義しています(p.73)。この定義なら,販売以外の様々な分野,例えば研究や開発あるいは学生さんや社会人の勉強に関しても,使えるかもしれません。

つまり,実現したい意思があり,その実現を妨げる障害があり,それでもあきらめないときに戦いが生まれ,戦略が生まれる(p.74),ということです。そして戦略とは「実現したい意思を明確にし,その実現を妨げる障害を特定し,それを克服する課題と対策をまとめたもの」となります。

上のように定義した戦略について,いろいろ書いてあります。系統立てて説明はできないのですが,面白いと思ったことを紹介します。

  • 戦略と計画は違う(p.82),戦略とは仮説である(p.84)
    本書では,戦略は計画を立てることとは違うということを強調している。戦略は「将来の予想から現在の行動を決定する」もので,「将来の予想から将来の行動を決定する」計画とは正反対の概念である。戦略とは仮説であり状況に応じて変えていく(p.34)。
  • 撤退基準を示す
    「勝てそうにもない場合に撤退する基準」を標準化しておく。
  • ドクトリンは変えない
    一方,簡単に変えてはいけないのがドクトリン(教義)である。ドクトリンは組織ごとに異なっていて,例として「浮利を追うな」,「法に触れないことは何でもやれ」,「リスクをとってもチャンレンジせよ」,「リスクを取るな」などが挙げられている。

戦略とは仮説であり,状況に応じてアップデートしていくべき,という考え方は理工系の分野と親和性があります。科学の理論体系は「仮説を立てそれを検証する」ことを繰り返して作られてきています。仮説というのは間違っているかもしれないことを前提とします。ですから科学での仮説は「反証可能性」や,それと対になる「観測の再現性」を持つことが特に重要になります。仮説は「こういう条件でこういう現象が観測されたら,仮説が正しいこと(あるいは正しくないこと)が検証される」というものとセットになります。

「理論は間違っているかもしれない,ツールは最適ではないかもしれない」という意識を持ち続けることが大事なのでしょう。工学で実用的なシステムを作る場合も,システムが誤動作する可能性や,設計者の誤りを検出する仕組みを考えて作っていくことが重要になります。

研究・開発・学習に応用できるか?

ランチェスター戦略は著者が「数字付き常識論」と書いていることからわかるように,考え方はそれほど目新しいものではありません。重要なのは,体感できるシンプルな数値目標を設定する点にあります。販売戦略以外の応用例として以下の例が挙げられています。

  • 成績を上げる
    一気にトップを目指すのではなく,優れた成績の者を模範に勉強し,まず下位グループから脱出し,次に平均点を目指し,上位グループに入るようにがんばっていく。(p.21)
  • 組織の中で,これまでの方針と違う新しい提案をする場合
    できればメンバーの40%,せめて25%の賛同を得るように,根回ししておく。それがてきないなら,提案せず,25%の賛同を得るよう努力する。それでも,25%の賛同が得られないようなら,提案を中止する。(p.22)

システム開発やモノづくり,研究など分野だと,次のようになるでしょうか。数値目標をどうすべきかは,数理モデルができているわけではないので今の段階では,ちょっと難しいです。

  • システム開発
    一度に全部を完全に作ろうとはしない。分割や階層化設計を使って考える対象を絞り(局地戦),段階を追って進めていく。分割する場合のユニット数は,多くても6程度までとする。(分割のユニット数は,人間の短期記憶の容量で定まる。)

気になること

目標と手段の是非は?

「戦い」は,何かを実現したいという意思があって始まるとされています。本書の本文中では,その実現したいことの是非ついては触れられていません。また,戦略を決める際に従うべき理念=ドクトリンについても同様です。この点については本書の末尾の矢野の特別寄稿「ランチェスター戦略の課題 ― 倫理を基底に据えた経営戦略の追及」で課題として指摘されています。この寄稿の中で矢野は「企業戦略は倫理を踏まえた,社会的に受容されるものでなければならない」としています。そのような方向にランチェスター戦略が進化してきたのか,また,これから進化していけるのか,が気になるところです。

勇ましいことをいうときは・・・
ランチェスター戦略は,軍事戦略をお手本としています。経営者は「戦い」のアナロジーが好きみたいなので,勢い,勇ましい物言いが多くなるのかもしれません。でも,私の経験では,

人間は敵が遠くにいるときほど勇ましくなる (「ヤじるし」の個人的意見)

という仮説を持っています(同じことを言っている人が他にいると思いますが)。人が勇ましい威勢のいい発言をするのは,まだ対峙すべき問題を把握していない可能性が高いように思います。勇ましい発言をしていた人が,現実と直面するとたちまちトーンダウンしてマニュアル通りの対応しかできなくなる,という例は多いかもしれません。

日本のIT系産業は大丈夫?

日本のIT系産業で,今後,世界で支配的になる分野,例えばAIや半導体などでの市場支配率が非常に低くなっているという記事を目にしました。ランチェスター戦略で提唱する市場占拠率の目標数値モデルでいうと「存在自体が無視されるが,なんとか存在できる」という3%を切っているようです。とても心配になります。今後は「存在できないくらいの弱者が盛り返すための戦略」を考えないといけないのかもしれません。

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公式は証明してから使え https://tamlab.fc2.page/category-books/category-books-science-and-technology/995/ https://tamlab.fc2.page/category-books/category-books-science-and-technology/995/#respond Wed, 21 Sep 2022 04:55:48 +0000 https://tamlab.fc2.page/?p=995 髙﨑 充弘:「ネジザウルス」の逆襲,日本実業出版社(2015)

毎日使っているわけでもないし,収集する趣味があるわけでもありませんが,工具一般には興味があります。「ネジザウルス」が,さび付いたりネジ頭の溝が壊れた(“舐める”と呼びます)ネジを外すための工具であることは,知っていました。

それで,図書館で表紙のタイトルを見て思わず手にとってしまいました。ネジザウルスは,2015年刊行当時で累計250万丁売れていて,これは工具としては異例の販売数なのだそうです。著者は,ネジザウルスを開発し販売している工具メーカーの株式会社エンジニアの社長さんです。そして,ネジザウルスの開発の経緯に触れながら,ヒット商品を生み出すノウハウについて持論を展開しています。「ある商品をヒットさせるにはどうすればよいか」という,科学系・工学系の研究・教育では,取り上げられる機会の少ないテーマを扱っています。

私は道具やシステムの中身や仕組みには興味があるのですが,どうやったら売れる道具が作れるか,ということには,あまり関心がありませんでした。システム開発の用語でいうと,システムの下位の階層に興味があるということになります。一方,自分の作る道具やシステムが社会という,より大きなシステムの中でどういう役割を果たすか,つまり,上位の階層については,あまり深く考えてこなかったといえます。

それで,たまには視点を変えて,自分にとって一番疎い,製品のマーケティングやプロモーションについて書いたものを読んでみようと思ったのです。

本書で語られる「ヒット商品を生み出すための法則」は4つ,マーケティング(Marketing),パテント(Patent),デザイン(Design),プロモーション(Promotion)からなっていて,ひとまとめにしてMPDPと呼んでいます。

一番初めに挙げられているマーケティングは,市場調査のことですね。どのような製品が求められているか,つまりニーズを見つける,ということです。これは,例えばユーザを対象とするアンケートなどで調べることができます。

しかし,面白いと感じたのは,水面下に潜んでいる潜在的なニーズを見つけることが大事だと述べている点にあります。実際,ユーザアンケートで上位に挙がった要求項目よりも,下位にある項目がヒットにつながるニーズであった例が紹介されています。また,ユーザがこんな使い方ができるのかと感じる驚きが必要だと述べています。

つまり,ヒットにつながるニーズを見つけるには,大勢の人の要求だけでなく,ユーザも気づかなかったニーズ,声なき声をとらえなければならない,と言っているのです。

MPDPの残り3つは,P(パテント),D(デザイン),P(プロモーション)です。パテントは特許や知的財産の権利,デザインは見た目や形状,プロモーションは売り出し方ということでしょう。いずれも,大学に勤務する理科系の研究者の多くにとっては専門外だった期間が長かったようです。(最近では,パテントとデザインはかなり重視されるようになってきたと思います。)

しかし,これからの大学は,専門外などと言ってはいられなさそうです。研究成果にしても教育成果にしても,それを広く利用してもらえる知的な財産として管理や保護を考え,見た目や使い勝手を良くし,さらに社会に売り出す。そういうことが必要となってくるのではないかと思います。

遅くなりました。本稿のタイトル「公式は証明してから使え」は,筆者が若いころのエピソードに出てくる言葉です。MPDPとは直接関係ないのですが,感銘を受けたお話しなので紹介します。

筆者は大学を卒業したあと,三井造船株式会社(現三井E&S造船株式会社)に就職します。そこで,ある技術的なトラブルに悩まされていたときのことです。先輩の自宅でメモ用紙に計算式を書いて,原因を導き出そうとしていたとき,先輩に「この計算に使った公式は、どこから出てきたものなんだ」 と言われ,「どこからって、『機械工学便覧』にあった公式だ」と答えます。すると先輩は,その公式は、証明できたのか? その公式が正しいことを証明してから使ったのか?と問いかけます。筆者が「いや、正しいも何も、便覧に書いてましたから….」 と答えたのに対し,「もし、その便覧が間違ってたら、どうするんだ!」と声を荒げ,次のように諭します。

「おまえの仕事には、人の命がかかっている。もし、おまえの計算が間違っていて、その ことで大事故を未然に防ぐことができなかったとしたら、船が沈没して乗客が死んでしま うかもしれない。そのとき、おまえは『だって便覧に書いていました』と言い訳するつもりか。たとえ権威ある文献に書かれていても、鵜呑みにしちゃいかん。本当に正しいと自 分の手で確認できるまで無闇に信用しないのが、この仕事に携わる者の良心だろう」 (p.158)

機械工学便覧のような文献に載っている公式に間違いがあるはずはないと思うかもしれませんが,可能性はゼロではありません。実際に,何度も校閲作業を経て出版された教科書の中で間違いを見つけたり,権威あるジャーナルに掲載された論文の数式に間違いがあることも経験しています。

誤りが混入することを前提して行動すべき工学では,どんなに権威のある文献に書かれた数式であっても自分で導出しないうちは信じてはいけない,というのは,工学に携わる人間にとっては,まさに良心に関わる,守らなければならないことです。

しかし,便覧や定評のある教科書に書かれてある公式が間違っている確率は非常に低いので,全ての公式を証明してから使うなんて効率的でない,という意見も当然あると思います。最近よく聞く(嫌いな言い方ですが)「コスパがよくない」ということでしょうね。

でも「公式は証明してから使え」には,誤りの可能性を極力減らすために身に付けるべき習慣あるいは守るべき倫理条項という意味以上のものがあります。

それは,自分で証明していない公式は有効に使えない,あるいは証明できるスキルがなければ公式を使いこなせない,からです。

私のしていた講義では,数学に基礎をおく様々な理論体系を身につけてもらうことを目標にしています。勢い,数式で書かれた「〇〇の原理」や,公式を扱うことが多くなります。

これらの数式を扱う際は,必ず数式の導出や証明の過程も一緒に学ぶようにしています。工学や物理学の理論体系をシステムだと考えると,数式で書かれた原理や公式も,そのサブシステム(部品)と考えられます。自分の使う道具については,少なくとも1つ下の階層を知る必要がある,つまり,その原理や公式の導出過程を知っておくことが大事だ,という考えから,講義では数式の導出に時間をかけています。

なぜかというと,原理を示す数式や公式を使いこなすためには,その式の「中の構造,仕組み」つまり導出過程を理解する必要があると考えたからです。社会に出てから実際に出会う技術的な問題は,公式に数値を入れて計算するだけで解決できるものばかりではありません。前提としている条件が成り立っていないのに使うべきでない数式を当てはめてしまうかもしれません。計算結果が現実と会わない場合は,導出過程までもどって考えないと,原因を理解できません。

さらに,公式を導出するために身に付けたスキルは,その公式を使う際にも必要となることが多いのです。

というわけで,重要な原理を表す数式や公式を示す際は,証明や導出過程を理解してもらうためにかなり時間をかけていました。ところが,教え方が上手でないこともあって,一部の学生には不評のようでした。

ある日の講義後のアンケートで「大事な公式は導出過程や証明なんかいらないから,さっさと結論だけ述べろ。後は,その公式に数値を入れて計算する「問題の解き方」の練習に時間をかけてくれ。」と書いてありました。このときは,退職後の年金を稼いでくれる若い人がこれでは・・・と,自分の将来が心配になったものです。

とは言え,上位階層の話題を取り上げる機会をもっと増やすべきだとは考えていました。様々な問題の中で数式や公式をどのように使っていくのか,どのようなときに数式が前提としている条件が成り立たないのか,その場合どのようにして修正するのか,などを具体的な例題で示すべきだったのです。だから今では,先のアンケートを書いた学生は,証明の過程を知らなければ解けないうような問題を多く見せてくれ,と言いたかったのだろうと考えることにしています。

なお,著者の経歴を見ると,私と大学入学が同期のようです。本書の中に株式会社エンジニアの前身の双葉工具製作所の製品(ネジを切るためのタップやダイス)の写真が掲載されていて,卒業研究のときに使っていたかもしれないなあと懐かしく感じました。

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はじめての治具設計 https://tamlab.fc2.page/category-books/category-books-science-and-technology/577/ https://tamlab.fc2.page/category-books/category-books-science-and-technology/577/#respond Tue, 16 Aug 2022 05:11:57 +0000 https://tamlab.fc2.page/?p=577 西村仁:はじめての治具設計,日刊工業新聞社(2019)

「治具」の正式な定義はなく,昔の書籍を見ると,「加工に使用する工具と工作物の位置決め及び固定を行う器具」の総称となっています。
 しかし現在では加工に限らず,組立・調整・検査といったあらゆる,工具・工作物・市販品など広く「位置決め」と「固定」をおこなう総称として使われています。この位置決めと固定は,モノづくりのすべての作業に共通した要素です。  (p.8)

工学部の学生だったので,何かモノを作ってみたかったし,研究もそうしたいと考えていました。

で,卒研が始まると,いろいろ作ってみます。ところが困ったことに,私は,

ものすごく不器用

なのです。さらに困ったことに,空間識別能力が劣る。どこに何を置いたかすぐわからなくなるし,自分がどこにいるかさえ,わからなくなってしまうのです。

また,空間だけでなく,今自分が時間軸上のどこに居るのかも忘れてしまうためか,物事を進める段取りが下手すぎました。

要するに,基本的な資質としてモノ作りには向いていなかったのです。

箱を作るとします。アルミ板に穴あけしてネジを切り,組み立ててネジで固定する。ネジ穴が4つあるとすると,どんなに気を付けて加工しても,3つまではネジを使って固定できるのですが,最後の1つにネジが入りません。 結局,その穴は「バカ穴」つまり,穴の寸法を拡げて,ごまかすことになってしまいます。

就職してからも,自分でモノを作る機会は多かったのですが上達はしませんでした。工作のスキルが非常に高い技術職員の方たちが近くにいたのですから,基本的な加工技術を教えてもらえば良かったのに,遠慮してできなかったのは今から考えると,とても残念なことでした。

今回紹介する「はじめての治具設計」は退職後に市立図書館で見つけた書籍です。機械設計の分野は専門外だし,もう機械工作なんてする機会もないだろうと思っていたのですが,苦手の分野でリベンジしたいという気持ちもあるのでしょう,つい手に取ってしまいました。

読んでいくと,「こういう本にもっと早く出会っていたら,工作のスキルも上がったかも」という気がしてきたのです。

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Vブロック

治具の例:Vブロックは,円柱状の対象を固定する際に使う治具です。

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本書は,治具の設計について,基本的な原理,実装の具体例,関連する市販の部品などについて解説しています。本書の「はじめに」によると,治具設計にはメカ設計の知識作業設計の知識が必要となるのですが,治具を使うのは人間なので,楽に作業するための作業設計が重要になるといいます。

本書の目標は,メカ設計と作業設計の習得ということになります。

しかし,本書に引き付けられた理由は,治具のメカ設計と作業設計の具体的手順が書かれた実用性の高い内容だったから,だけではありません。

初めて学ぼうとする人のための本」としてお手本にしたい特徴を多く備えているからです。

本書の記述は文章も図版もわかりやすい。文章は短く,簡潔です。数式は,基本的なものに限られています。ほとんど全ての解説ページには図版が使われています。おそらく筆者自らの手で元の図を描いて工夫したのだろうと想像できます。

生産の現場で使われることを想定した内容ですが,説明の進め方は,学生の自習用の教材を作る際の参考になるでしょう。(残念ながら,私の専門分野で重要になる数式を理解させる事例は少ないです。)

本書に惹かれた理由はまだあります。本書の底には,私たちが学んで教えている学問分野に共通する重要な考えが流れているように感じました。

例えば,治具を使うことで,特別なスキルを必要とせず(つまり誰でも),同じモノを低コストで作ることができるようになる。この「誰がやっても同じモノを作れるようにする」あるいは「特別な才能がなくても誰でも問題を解く方法を示す」ことが,私たちが大学の工学部で学んだ学問の特長だと思うのです。

さらに,作業設計に関して述べている章では,

「どんなに責任感があっても,どんなにやる気があっても「人はミスをしてしまうこと」が作業設計の前提条件となります。」(p.143)
「・・・「機械はトラブルが起こる」ことが機械設計の前提条件となります。」(p.144)

と述べています。「人も機械も間違う・誤動作する,ということを前提にシステムを作らなればならない」のは,様々な分野での設計では常識なのですが,大学の講義で学生に伝える機会はなかなか少ないのです。

教育とは,知らないことを新たに伝えること。訓練とは,実際にできるようになるまで指導することです。(p.143)

アカデミックな学理を重視する大学では「間違いを防ぐための具体的な方法の教育」は講義科目にはなりにくいし,できるようになるまで指導することも時間的に難しいのです。また,動作設計のようなケースごとに異なり一般化・抽象化が難しい分野が軽視されてしまうのは,仕方がないことかもしれません。

私の担当していた講義でも,学理の習得に重点を置いていました。私が担当した学生の多くは,理論が導き出される前提条件や過程は興味がなく,結果だけを欲しがる傾向があるようでした。しかし,結果だけを取り出した知識は,結局,使い物にならないことが多いので,前提や過程を理解してもらうことに時間を割かざるを得ませんでした。

しかし,「間違うことを前提として物事を考えること」はとても大事だと思います。例えば,政策や行政の仕組みなどで誤りがあってもそれを認めず突き進んだ結果,大変に残念な事態におちいってしまう例が多いようです。

そこで,時間も少なく力も及ばなかったのですが,計算問題を解くときは必ず検算をさせたり,表を使って間違わずに計算する方法を教えたりしていました。また,教科書の中にも誤りはある講義でしゃべっている内容にも間違いがあるかもしれないと注意し,配布資料の中にある間違いを見つけてくれた受講者には最終評価に加点する,といったこともしてきました。

でも,学生に伝わったかどうかを評価する方法を確立するところまでは至りませんでした。学部の教育では無理でも,研究室に配属された学生を対象としてなら対応ができるかもしれません。私にできそうなのは,自学習用の資料や環境を作ることだろうと考えています。

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「模倣の時代」を越えられるか https://tamlab.fc2.page/category-books/category-books-science-and-technology/566/ https://tamlab.fc2.page/category-books/category-books-science-and-technology/566/#respond Fri, 12 Aug 2022 07:50:34 +0000 https://tamlab.fc2.page/?p=566 板倉聖宣:脚気の歴史 日本人の創造性をめぐる戦い,仮説社(2013)

この80ページのブックレットは,「前口上」に記されているように,
板倉聖宣:模倣の時代 上・下,仮説社 (1988)
の簡約版と言えるものだ。短く読みやすい。しかし,密度は高い(と私は思った)。

1940年頃までは,それが原因で亡くなる人は年間1万人を下ることはほとんどなかった(p.2)「脚気」の原因究明と克服の過程が歴史的資料を通して語られている。

この中では,人の生き死にに関わる医学分野の研究で「こんなことがあっていいのか?」とびっくりするようなことが起きていたことが,淡々と述べられている。そして,日本が科学技術のほとんどの分野で西洋を模倣していた「模倣の時代」に,西洋には少ない脚気という創造性を発揮しなければ克服できない課題にどう対応したかが描かれている。

内容は読んで判断していただくしかないのだが,最終章「誰がビタミンを発見したか」の,まとめの文章,

このように,脚気研究史を見てくると,その歴史があまりにも人間臭いものであることが明らかになってくる。科学研究というものは厳正なものでなければならないはずなのに,そんなことより派閥の力がものを言ってきたことが恐ろしく思われる。これは,昔のことばかりとは言えない。いまもなお,いろいろな研究分野,特に創造性を必要とされる分野で繰り返されているといって間違いないだろう,創造的な科学研究の伝統のないところではそういうことが日常的だといってもいいのである。(p.76)

にあるように,科学や技術の研究分野に携わる多くの人が胸に手を当てて省みるべきことが述べられている。

この書を読んだのは,新型コロナウィルスの国内感染の第6波の最中だった。だから,「同じことが現在も繰り返されているのではないのか?」と感じてしまうのだ。火を消す真っ最中で,何がよくて何が悪いのかは判断できない状況にあることは理解できる。しかし,都合の悪いことも含め,せめて後世で検証できるような記録を残しておいてほしいと強く感じる。

なお2022年は,日本の脚気研究と対策の中で重要な役割を果たした森林太郎(森鴎外)の生誕160年,没後100年にあたる。医学者としての鴎外の役割を知りたい人は,本書を読んでみるとよいだろう。なお,

海堂 尊:奏鳴曲 北里と鷗外 ,文藝春秋 (2022)

も読んだのだが,登場人物の行動の背景は本書の方が俯瞰的でよくわかると感じた。

文才のない私は,ただただ歴史資料に語らせることによって,この物語を綴ることにする。(本書p.3)

と筆者の板倉は謙遜してみせるのだが,本書には「コロナ禍の下にある今まさに読むべき」と感じさせるインパクトがある。(「奏鳴曲・・・」のAmazonでのキャッチコピーは「『チームバチスタの栄光』『コロナ黙示録』の著者によるド迫力の医療小説!!」なんだけどね。)

文学的なレトリックを工夫するより「ただ歴史資料に語らせる」方が,人の心を打つということはあるのかもしれない。

<続きを読む>

しかし,本書の導入部は,伊藤玄白が武士の一団に呼び止められる,という時代小説風の表現になっている。本書は全体としてノンフィクションというジャンルに分類されると思うのだが,導入部は「資料に語らせる」というよりは「見てきたように書く」という小説的な臨場感を持たせながら進行する。

おそらく,この方法は板倉らが提唱する「授業書」で使われるテクニックではないかと思う。しかし「授業書」については,私はまだ勉強が足りないので,もう少し調べてみる必要がある。

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「追記」まで読むべき!

本文の最後の「追記」まで読んだ読者は愕然とするだろう。大事な「歴史的資料」だって偽造されてしまうかもしれないのだ。うーん・・・それはちょっと勘弁してほしい。

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