デーヴァダッタ・パトナーヤク:インド神話物語 ラーマーヤナ 下,原書房 (2020)
下巻に収められた第7巻は第1巻とともに後代になって追加されたとされています。この第7巻があるからこそラーマーヤナは読者の心に深く届く物語になっています。第7巻のおかげで,物語は単純な勧善懲悪のお話しにはならず,複雑で簡単には結論の出ない問題が提示されています。
王(為政者)であるラーマは規則に従い民衆の評判を守ろうとします。シーターは,ラーマが常に最善と思うのものになろうとつとめていることを理解しています。そしてラーマは,何があろうとシータが彼を支持することを知っているのです。しかし,その結果,二人は別離することになってしまいます。
このようなストーリーの陰で,ラーマは「精神」や「社会的な規則」を,シーターは「肉体」や「自然」を象徴する存在として描けれているようです。性差とは無関係な要素を男性と女性に関連づけることは,いろいろと問題アリなのですが,この物語ではよく使われています。しかし大事なことは本書の上巻の中でラーマが語っているように,これは比喩であり「男性の体を使って精神を,女性の体を使って自然を説明することがわかりやすい (上巻p.89)」からなのです。
例えばラーマは「誰もシーターを自分のものにできない。大地と同じく,私のシーターは誰のものにもならない。私が彼女を自分のものだと言うことを許してくれているだけだ。」と言い,シーターも「夫になるのに,あの人は妻を支配する必要はない」ことを知っています。この2人の言葉は,妻が夫の所有物だとされる文化の中では伝統に逆らうものかもしれません。でも現在の日本の社会でなら,男女を取り換えても自然なものとして受け入れられるでしょう。
一方,これらの言葉は人間と自然の関係を表している考えることもできます。人間は大地や自然を所有していると思うかもしれません。でも大地や自然は誰も所有できず,私たちがそれを所有していると言うことを許しているだけです。本書では,このように比喩を使って複数の意味を持たせた言葉が幾つか見られます。
本書の中では度々「文化」と「自然」が対比されて描かれます。パトナーヤクの再話ではシーターが主人公に据えられ光を当てられています。シーターは王家と為政者としての規則から離れることのできないラーマと別れ,自然の中での誰にも依存しない自立した生き方を選びます。これは,現代では軽んじられている自然を重んじるべきと主張しているのかもしれません。しかし,2つの生き方を相容れないものとして捉え,どちらか一方だけを「正義」としているわけではないようです。文化的規則の無い「ジャングルの掟」にまかせてしまった社会では,弱者は生きていくことができないからです。
さて第7巻では,(文章で書かれた)ラーマーヤナの作者として知られるヴァールミーキが登場します。物語の中で作者自身が登場人物になるという趣向は,(私にとっては)手塚治虫の幾つかの作品や,北杜夫の児童向けの作品「船乗りクプクプの冒険」が印象に残っています。このような構造は,物語と現実の境界をぼかすと同時に物語の時間や空間に「ねじれ」を感じさせる仕掛けになっていると感じました。
このような仕掛けは,パトナーヤクによる再話では様々なところで見られます。例えば,再話の全体は地下に潜ったハヌマーンがシーターとラーマの物語を語るという構造になっています。そして最後の部分で,ハヌマーンは自分がまだ目撃していない物語の部分を語っていることに気付いて話を止めます。ハヌマーンは,自分が自身が語っている物語の登場人物であることを自覚しているようです。
また,ラーマーヤナの物語は永遠に繰り返される,という「永劫回帰」を思わせる考えが背景にあります。過去・現在・未来の時間によらず常に「完全な物語」が存在していて,それは何度でも再生される,再生されて現れる個々の物語は不完全なものかもしれないけれど,という感じです。
これらの仕掛けの結果,物語がはるか過去に起きて終わってしまった出来事ではなく,今,自分の近くの空間で起きている,そしてこれから起こることのように感じさせる効果が生まれるようです。
ラーマーヤナを完成させたヴァールミーキは,ハヌマーンもまたラーマーヤナを書いていたことを知ります。ヴァールミーキがハヌマーンのラーマーヤナを読み,自分のものよりはるかに優れていると感じて泣き出す場面は,物語とその作り手の関係について考えさせます。ヴァールミーキは,自分が承認されたくてラーマーヤナを書いていたのに対し,ハヌマーンはシーターとラーマのことを覚えていたくて書いた,というのです。ラーマーヤナは心をひろげ承認されないことの恐怖から解放するための物語なのに,ヴァールミーキは自分の野望のために書いていたことを悟ります。
以上のように,物語の中ではインド由来の東洋思想の様々な概念が,登場人物の言葉や行動として示されています。これらの全部を紹介することはできません。物語の中では短い簡潔な言葉で表されているのに,それを説明する文章にしようとすると,グダグダになってしまうのです。
ラーマーヤーナは,人々が最善と思われるものを注ぎ込んで想像した有機的な言い伝えと考える必要がある。自分たちの考えを押し付けてあらゆる議論で優位を得たがる政治家や学者の間では,この話を固定化して命のないものにしたいという願望がよく見られる。(p.32 パトナーヤクによる註)
パトナーヤクは「有機的」という言葉で,物語は生き物であり常に進化・変化するものだと言いたいのだと思います。ラーマーヤナのように口承文化の中で発生し伝わってきた物語は,何世紀にも及ぶ年月の間に,数多くの削除・省略・追加などの遺伝的操作(generic operations)を経て今の形になっています。コミックスや小説では「二次創作」などと呼ばれる作品群があります。ラーマーヤナは,二次,三次どころではない次数の創作過程を経ているのです。商業化された現代の物語の創作過程とは異なり「パクリ」とか「著作権」などという概念はなかったのです(何しろ,そもそも文字がまだなかったのだから)。
本書はエンターテインメントを目的とする読み物としては問題もあります。上巻の紹介にも書きましたが,この再話全体からは,物語のダイジェスト・粗筋の紹介という印象を受けてしまうことは否めません。もう少し物語に没入できるような「再話の再話」があってもよいと感じます。でもビジュアル化は難しいでしょうね。例えば,重要な登場人物のラーヴァナは「世界一の美男子」ということになっていますが,頭が10個,腕が20本あるという設定です。これじゃ,そのまま映像化したんではどう見てもホラーになってしまいます。インドでは映画化やTVドラマ化もされたみたいですが,ラーヴァナをどう描いたのか気になります。
下巻にも,読者を鼓舞する言葉が多数あります。様々な場所で学んでいる人たちには,ハヌマーンが「知識」について語った次の言葉が贈り物になるでしょう。
「知識とは水に浮かぶ丸太のようなものです。悲しみの海で,我々が溺れずにいられるよう助けてくれるだけです。岸を見つけるためには,自分の脚で水を蹴って泳がねばなりません。他の人が代わりに泳いではくれないのです。」 (p.23)
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