「模倣の時代」を越えられるか

科学技術

板倉聖宣:脚気の歴史 日本人の創造性をめぐる戦い,仮説社(2013)

この80ページのブックレットは,「前口上」に記されているように,
板倉聖宣:模倣の時代 上・下,仮説社 (1988)
の簡約版と言えるものだ。短く読みやすい。しかし,密度は高い(と私は思った)。

1940年頃までは,それが原因で亡くなる人は年間1万人を下ることはほとんどなかった(p.2)「脚気」の原因究明と克服の過程が歴史的資料を通して語られている。

この中では,人の生き死にに関わる医学分野の研究で「こんなことがあっていいのか?」とびっくりするようなことが起きていたことが,淡々と述べられている。そして,日本が科学技術のほとんどの分野で西洋を模倣していた「模倣の時代」に,西洋には少ない脚気という創造性を発揮しなければ克服できない課題にどう対応したかが描かれている。

内容は読んで判断していただくしかないのだが,最終章「誰がビタミンを発見したか」の,まとめの文章,

このように,脚気研究史を見てくると,その歴史があまりにも人間臭いものであることが明らかになってくる。科学研究というものは厳正なものでなければならないはずなのに,そんなことより派閥の力がものを言ってきたことが恐ろしく思われる。これは,昔のことばかりとは言えない。いまもなお,いろいろな研究分野,特に創造性を必要とされる分野で繰り返されているといって間違いないだろう,創造的な科学研究の伝統のないところではそういうことが日常的だといってもいいのである。(p.76)

にあるように,科学や技術の研究分野に携わる多くの人が胸に手を当てて省みるべきことが述べられている。

この書を読んだのは,新型コロナウィルスの国内感染の第6波の最中だった。だから,「同じことが現在も繰り返されているのではないのか?」と感じてしまうのだ。火を消す真っ最中で,何がよくて何が悪いのかは判断できない状況にあることは理解できる。しかし,都合の悪いことも含め,せめて後世で検証できるような記録を残しておいてほしいと強く感じる。

なお2022年は,日本の脚気研究と対策の中で重要な役割を果たした森林太郎(森鴎外)の生誕160年,没後100年にあたる。医学者としての鴎外の役割を知りたい人は,本書を読んでみるとよいだろう。なお,

海堂 尊:奏鳴曲 北里と鷗外 ,文藝春秋 (2022)

も読んだのだが,登場人物の行動の背景は本書の方が俯瞰的でよくわかると感じた。

文才のない私は,ただただ歴史資料に語らせることによって,この物語を綴ることにする。(本書p.3)

と筆者の板倉は謙遜してみせるのだが,本書には「コロナ禍の下にある今まさに読むべき」と感じさせるインパクトがある。(「奏鳴曲・・・」のAmazonでのキャッチコピーは「『チームバチスタの栄光』『コロナ黙示録』の著者によるド迫力の医療小説!!」なんだけどね。)

文学的なレトリックを工夫するより「ただ歴史資料に語らせる」方が,人の心を打つということはあるのかもしれない。

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しかし,本書の導入部は,伊藤玄白が武士の一団に呼び止められる,という時代小説風の表現になっている。本書は全体としてノンフィクションというジャンルに分類されると思うのだが,導入部は「資料に語らせる」というよりは「見てきたように書く」という小説的な臨場感を持たせながら進行する。

おそらく,この方法は板倉らが提唱する「授業書」で使われるテクニックではないかと思う。しかし「授業書」については,私はまだ勉強が足りないので,もう少し調べてみる必要がある。

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「追記」まで読むべき!

本文の最後の「追記」まで読んだ読者は愕然とするだろう。大事な「歴史的資料」だって偽造されてしまうかもしれないのだ。うーん・・・それはちょっと勘弁してほしい。

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