パク ヨンジョ/著,金 智恵/訳:縦スクロール漫画制作の基礎がわかる本,翔泳社(2024)
縦スクロール漫画のテクニックはPPT教材に使えるか?
ということを考えていたので,図書館の新刊コーナーで見つけて,思わず借りてしまいました。
PPT教材に使えるのか,ということに関する結論からいうと
- 縦スクロール漫画(ウェブトゥーン)はPPTのスライドショーと構造的に類似点が多い
- しかし,ストーリーの提示を目的としている漫画のテクニックは,数学や工学のトピックの理解を目的としているスライドショーにはダイレクトに適用できないだろう
と感じました。そもそも目的がエンターテインメントと教材とでは異なっているので,当然といえば当然なのです。
エンターテインメント関連の技法書としては?
なかなか,いいのでは?
しかし,教材作製から離れて,エンターテインメント関連の技法書として読むと,以下に挙げる点でよくできていると感じました。
- 漫画や映画さらにアニメなど「絵・動画とテキスト・音声で構成されるエンターテインメント向け媒体」を制作する上での,基本的な内容が解説されている
- 解説はシステマチックで,図版も多い
- 指示は具体的
本書で紹介されている技法や制作プロセスは,ウェブトゥーンだけに限定されいません。従来の漫画やアニメだけでなくテキストのみの小説などにも応用できる,基本的かつ一般化できる理論や技法がたくさん紹介されています。
説明の仕方はちょっと理屈っぽいと感じる人はいるかもしれません。しかし理屈だけではなく,どのようにすればよいかも具体的に説明されています。漫画の創作に関する本なので当然なのでしょうが,図版は多いです。ほとんどの項目の説明に図が添えられています。
以上のようなことから,この本自体が初心者向けの教材を作るときの「お手本」にもとなると感じました。
私は漫画制作に関する技法書を詳しく読んだことがありません。ですから本書が,これからウェブトゥーンや従来の二次元構成の漫画を描こうと考えている人に役に立つかどうかは,判断できません。でも,私にとっては,知らない,あるいは聞いたことはあるけれど意味のわからなかった用語が基本から解説されています。あまり期待しないで手に取った本なのですが,読んで得した気持ちになりました。
ウェブトゥーンとPPTスライドショーの比較は別稿に・・・
ウェブトゥーンとPPTスライドショーの違いについても書こうと考えていたのですが,まとめようとすると長くなりそうなので,別稿にすることにしました。その目的で描いた図のバリエーションの1つが下です。


図1 ウェブトゥーン(縦スクロール漫画)は「縦読みの絵巻物」
この投稿では,本書「縦スクロール漫画の制作の基礎がわかる本」の簡単な紹介だけに留めておきます。
目次と筆者紹介
本書の目次と筆者紹介はAmazonのサイトでも閲覧できますが,以下に示しておきましょう。
PART 1 スマートフォンに適したコンテンツ、縦スクロール漫画
PART 2 縦スクロール漫画で作るストーリーテリング
PART 3 縦スクロール漫画の創作・制作プロセス
PART 4 縦スクロール漫画の演出技法
PART 5 心理描写とシーンの演出
ストーリー作りから始まって,創作・制作プロセスや演出技法について詳しく書かれています。PART 2~PART 4のタイトルを見ると“縦スクロール漫画”に限定しているように感じられるかもしれません。でも,内容は従来型の二次元配置漫画やテキストのみの文芸作品にも応用可能だと思います。
本書の「はじめに」と奥付の紹介によると,パクの経歴は以下のようなものです。
小さいころから漫画を描くことが好きだった。大学ではコンピュータを専攻しIT企業に就職した。30代半ばに漫画に挑戦したいと考えて大学院に進学し漫画とアニメーションを専攻し,芸術学の修士と博士号を取得している。しかし,大学院では研究が目的であるため,ストーリーの作成や作画は独学で学ぶしかなかった。
その後,IT企業で働きながらウェブトゥーン作家としてデビューした。しかし,連載を始めた5つの作品は全て3か月で終了することを余儀なくされ,ちゃんとした作品を創りだし続けることの難しさを味わった。そこでスタジオチームを結成することにし,その結果,ウェブトゥーンの本格的な連載ができるようになった。現在のパクは,ウェブトゥーン作家兼プロデューサーとして活動し,大学などでの教育にも従事している。
<詳しく読む>
技法書マニア
私の学校での図画工作や美術の成績は惨憺たるものでした。それなのに,ちょこちょこ落書きするのは好きでした。そして,ある程度お小遣いが自由に使えるようになると,美術関係の技法書や,ちょっとお高い「デザインの現場」などの雑誌も購入して読んでいました。自分ではちゃんとした絵は描けないのに,どういう道具を使うのかとか,こういうイラストはどういう手順で描くのか,というツールや作製プロセスには興味があったのです。
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本書の「はじめに」に,
最初に私が経験した困難を振り返り,縦スクロール漫画制作の入口だと思われるネーム(絵コンテ)の演出を基本に,作品創作初期に難しさを感じている作家志望者の方々や,縦スクロール漫画作品を初めて制作する作家の皆さんのために構想に至った本書が,縦スクロール漫画の制作に少しでもお役に立てればと願っています。(p.004)
と書かれていることから,作家志望者など初心者を対象とする入門的な内容であることがわかります。
感想
印象に残ったところを挙げていきます。
ストーリーテリング
本書のPART 1でウェブトゥーン(本書内では“縦スクロール漫画”と呼んでいる)の特徴が紹介されていて,PART 2からが本格的な内容になります。その始まりのPART 2で述べられているのがストーリーテリングなので,これが,まず押さえておくべき大事なポイントであることがわかります。PART 2の冒頭で,
ストーリーは,時間の流れの通りに羅列された物語のこと。
ストーリーテリングは,物語を構成し効果的にテーマを伝える方法のこと。(p.030)
のように,ストーリーテリングの定義を与えて,それに続いて,ストーリーテリング化に必要な要素や劇的な構造の創り方について説明があります。私は,この部分がとても面白いと思いました。このような分野の知識がほとんど無いこともありますし,講義や研究発表の資料を作るときは,いつも「この内容をどういうストーリーで伝えようか」と考えていたからです。
演出技法
PART 4,PART 5では様々な演出技法について説明されています。紹介されているものの多くは,映画の演出技法を基にしているようです。コマが二次元に配置された従来の漫画でも,映画の演出技法の影響を受けている(と何かで読んだ覚えが・・・)ようです。
コマの配置が上下の一次元配置であるウェブトゥーンは,従来の漫画と異なり視線の左右・上下の移動というリテラシー(読みのスキル)は不要になります。その分,視線の移動がさほど要求されない映画で使われている演出技法との馴染みが,より強いのだと思います。
気になったところ
気になったところもあります。本書の記述は「システマチック(体系的)だ」と書きました。筆者のパクがIT技術者を経て大学院で博士号まで取った研究者だったということが関係しているのだろうと思います。理屈っぽい印象を受けるのもそのためでしょう。(研究者・学者は,名前を付けたり,分類したり,一般化したり,法則を見つけたり,理屈をつけようとするのが習い性なので仕方ないのです。)
しかし,その理屈の基になる根拠が示されていないことが多いのです。例えば,PART 4の「左右・上下の視線の流れで作る感情表現」の項で,左から右への視線の流れや右側の空間は未来を意味する,逆に右から左への視線の流れや左側の空間は過去を連想させる,と述べられています。しかし,その根拠は示されていません。
左→右の方向が未来を意味するというのは,横書きで左から文字を並べていく欧米の習慣に基づいていると考えられます。時間変動を表すグラフなどでも,時間の進む方向は左→右の向きです。「右肩上がり」などという表現は,これを前提としています。
しかし,伝統的な日本や中国の書物では,縦書きで,行は右から並べていくので,時間の流れは右から左へとなっています。図1に示した絵巻物なんかもそうです。したがって,本書で述べられている“時間軸は左から右へ”に基づく技法が人間に元々備わっている性質に由来し全世界の人に通用できるかどうかは疑問,です。
同様のことは他にもあると思います。でも,本書は初心者向けのものです。一々,根拠や出典を示していたら,とても読めない本になってしまいます。それに,読んでいて「あれ? ここはどうしてだろう・・・。」と疑問に感じさせたり考えさせたりる部分が含まれていることも,教材として大事な点だと思います。
本書は,索引がついていて,そこも教材として高く評価できる点です。例えば「あ行」を見ると,「アイリスショット」,「アイレベルショット」,「憧れ」,「アポカリプス」,「歩く死骸症候群」・・・と続いています。全く知らない,あるいは何となく意味はわかるけれど説明できない言葉が結構含まれています。(あ行に挙げられている15個の用語だと,全く知らないが7個,何となくわかるが説明できないが2個でした。)
このような,知らなかったことについて,わかりやすく(正しいかどうかは別にして)書いてあるので,読んで知識欲を満たせる本でした。もちろん,本当に役に立てるためには,手元に置いて何度も読み返す必要があると思います。
私の知識欲が満たされたからといって,ウェブトゥーン作家を目指す人の役に立つかどうかはわかりません。この本を繰り返し読んで,理屈を理解し一般法則を見出し,それを適用したとします。作成プロセスでの苦労は減るかもしれません。でも,面白い作品ができることが保証されるわけではないことも確かでしょうね。
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