ヒューゴ・メルシエ∥著,高橋 洋∥訳:人は簡単には騙されない:噓と信用の認知科学,青土社(2021/03)
初めに言い訳・・・
暑さによる体調不良で,夏の間は何もできないまま過ごし,気が付いたら11月も半ば過ぎてしまいました。夏バテに加えて,慢性の腰痛持ちだったのがひどくなってパソコンの前に座っていられなくなりました。
電子回路の不具合やソフトのバグなら,幾つかの原因を仮定し,1つずつ条件をコントロールして動作を確認していく,というやり方で原因をつかめます。しかし,自分の身体となると,そんな悠長なことは言ってられなくて,とりあえず良さそうなことは全部やってみました。腰痛コルセット,ピップエレキバン,漢方薬,ビタミン剤,・・・などなどを試し,どれが効いたかは不明なのですが,やっと座れるところまで回復してきました。結局,「自然治癒力」,「日にち薬」が一番効いたのかもしれません。
というわけで,ずっと何もできないでおりました。行動記録を兼ねている「読書日記」も全く更新できませんでした。
でも何か書かないでいると,どんどん書くことができなくなっていきそうです。実際,書けなくなっているし,ソフトウェアのコーディングもどんどん忘れていきます。で,リハビリということで書き始めましたが,今回のお題が,情けない事に,「読めない本」です。
読めない本
読めない本が増えたのは図書館で本を借りて読むようになってからです。せっかく来たんだからと貸し出し上限の冊数まで借りるので,性が合わない本も借りてしまうからでしょう。でも単なる老化現象で難しい本が読めなくなっているだけかもしれません。
今回,紹介するのは読めない本の1冊です。この本を手にとったのは「人間はなぜ,あることを信じてしまうのか?」ということに昔から興味があったからです。同じ事実に接しても,全く相反する意見を持つのは何故か? なぜ宇宙人やUFOなど真偽の確認のしようのないことを信じる人がいるのか?(あるいは,信じないのか?),そして,それはどのような心の働きでそうなるのか?が知りたいのです。
一方,科学的な知識(例えば進化論や相対性理論)は,直観に反しているうえに一般の人には確認が難しいのです。にもかかわらず,(例外はあるものの)広く受け入れられているようです。それはなぜなのか。科学的知識が受け入れられている状況を安定して保つことは大事だと考えています。というのは,現在,大きな問題になっているパンデミックや薬害,気候温暖化などに適切に対応するためには,専門家ではない多くの人たちが科学的な知識や考え方を知っていることが重要になると思うからです。
また,私は技術に関する知識やスキルを伝えることでお給料をいただいていたので,勢いそういうことに興味を持つことになったのでしょう。
この本には,上のような興味に関連する考察が多く述べられています。でも,あまりにも文章が読みにくくて,読み進めることがなかなかできませんでした。
ですから,この投稿では本書の詳しい内容の紹介はしません。詐欺師はどれくらい成功するのか? プロパガンダは本当に効果があるのか? 陰謀論を信じる人はなぜ信じるのか・・・などに興味がある方は読んでみる価値はあると思います。
さて,この本,(私には)わかりにくい文章が連続します。例えば次のような文章があります。
直観的に言えば、コストのかかるシグナルが機能するにあたって重要なのは、信頼に足るシグナルを送る人によってコストが支払われる点にある。(p.50)
「直観的に言えば」とありますが,直観的には何を言ってるかわからない文章です。
「コストのかかるシグナル」とは「何かを伝えるための,手間ひまかけた行動」のことだろうと思います。「信頼に足るシグナルを送る人」というのは「“信頼に足るシグナル”を送る人」なのか「信頼に足る“シグナルを送る人”」なのかが判然としません。後者だとして解釈すると。この文章は,
「手間ひまかけて伝えようとしたことが伝わるためには,伝えようとする人が信頼に足る人であることが大事です。」
と言っていることになります(この書き換えた文章もわかりにくく,間違っているかもしれませんが)。そうであるなら,そのように書けばよいのに・・・。ひょっとしたら元の英語の文章で読んだ方がわかるかもしれません。本全体を通して,ずーっとこんな文章が続きます。
研究室の学生と英語の論文の読み合わせをすることがありました。技術系の,それも私の専門とする分野のものなので,数式の理解などは別にして,文章は不自由なく読めます。ところが,あるとき学生がweb検索の高速化に関する論文を選んできました。この論文は一読しても意味が取れなかったのです。特に難しい単語を使っているわけではないのですが,微妙に意味が異なっているためなのか,とにかく意味が頭に全く入ってこないのです。
このことは,読めない理由のかなりの部分は,読み手(つまり私の)予備知識の有る無しによるところが大きいことがわかります。
でも,それだけではないようです。本書「人は簡単には騙されない・・・」は,心理学や生物学の用語を使っているとはいえ,和訳で読んでいるので決してなじみのない意味のとれない単語があるわけではないのです。
次の文章は,筆者が「わかりにくい文章」の例を挙げている段落です。長いけれど引用します。
文章がわかりにくくなればなるほと、それたけ理解しようとする読み手の努力が必要になる。その結果、他のあらゆる条件が等しければ、不明瞭さはその文章を読み手にとって自己関連性の薄いものにする。一例をあげよう。「エアバッグが膨張するような衝撃が生じたとき、エアバッグの膨張装置は、過度の内的圧力が生じるような様態で作動する。その結果、膨張装置のケーシングが破裂して、金属片がエアバッグを突き抜け車内に飛び出してくる可能性がある。」(p.300)
和訳の文章が,硬めの熟語を使った,もったいぶった書き方になっています。これがわかりにくさの原因の1つでしょう。前半の「文章がわかりにくくなればなるほど,・・・自己関連性の薄いものにする。」は「わかりにくい文章は自分とは関係の薄いものとして受け取られる。」ということです。この主張は本書の中で複数の箇所で出てくる重要な考え方です。それが「わかりにくい表現」で訳されているのは皮肉です。
さて,この段落の後半で分かりにくい文章の例として挙げられている「エアバッグが・・・可能性がある。」も,もったいぶった表現ですが私には明瞭に理解できます。これはたぶん内容が技術的なものだからでしょう。このことからも,文章がわかりにくいかどうかは読み手の持っている知識や経験にも関係していることがわかります。(ですから,この本を読みにくと感じる理由は,私に知的な問題があるためで,心理学や認知科学の本を読んでいる読者なら楽に理解できるはず,という可能性は多いにあるります。)
好意的に解釈するなら,本書には,筆者の言うところの「反省的(reflective)な思考」を必要とする文章が多いためかもしれません。「反省的な思考」を必要とする表現の例としては次のようなものが挙げられています。
「バットとボールの値段は合わせて1.1ドルである。バットはボールより1.00ドル高い。ではボールの値段はいくらか?」
この問いかけに対しては普通の人は直観的には正しい解答が出せません。こういう計算に慣れていない人にとっては,ちょっと立ち止まって考えないと誤った答え(例えば「ボールは0.1ドル」)を導いてしまいます。このような「立ち止まって考える」ことを読者に要求する文章が続くと,確かに読みにくくなるでしょう。
なお,「反省的」という言葉は,心理学や教育学で使われている用語のようですが,一般の読者にはわかりにくいと感じます。どうしても漢字の熟語で書きたかったら「内省的」とか「熟考」などと訳した方が良いかもしれません。
伝わらない言葉で得をする人たち
いわゆる「人文社会系」の方達が書く文章に関して,私は昔から1つの疑惑というか仮説を持っています。それは「この人たちは必要以上にわかりにくい文章を書くことで何らかの利益を得ているのではないか」ということです。難しい文章で書くことのメリットは,次のようなのではいかと考えています。
- 大した内容ではないが,難しい文章で書くと有難みが増す
逆に,わかりやすい文章で書くと誰でも導き出せる内容だと軽んじられるかもしれない。身もふたもないが,これが一番ありそうだと考えている。 - 難しい文章で書くと,訳のわからない人たちに絡まれない
自分たちの学問的コミュニティに「知的レベルの低い」人が入ってきたり,論争をしかけられたりせずに済むかもしれない。多少,好意的な仮説。 - 難しい言葉でないと伝わらないこともある
これは高名な評論家の方の発言。一番,好意的に解釈するとこうなる。
もちろん,学問的な厳密さを求めると,どうしても回りくどい,わかりにくい文章になることはあります。わかりやすい文章だけで書いた論説は,ひっかかりがなく,読んだあと何も残らないかもしれません。読者にある程度「反省的な思考」を強いる文章が混ざっていた方が,深い内容が伝わる,ということはあるかもしれません。
特に,直観に反する結論が導き出される場合は,読者はどこかで反省的な思考をすることになります。ですから全く反省的思考を要しない文章だけで内容を伝えるのは難しいでしょう。
でも,人文系の書籍の論説のかなりの割合のものが,有難みを増し部外者が口を出さないようにするために,難しい文章にしているのではないかと見ています。文系で特に目立つと思うのですが,理科系・技術系の場合も同じことが言えます。
技術系の場合,伝えたいことが伝わらなかったら事故につながるし,作れるものも作れなくなります。実験科学の分野でも,論文を読んだ人が実験を追試するためには,再現性が大事なので,わかりやすい文章が求められます。とはいえ,一般の読者には知られていない業界特有の用語(ジャーゴン)をちりばめたりして書き手を実際より大きく見せることはよくありそうです。私の投稿だって,そのきらいはあると思います。
本書には,理解しにくい文章を書くことが大きな利益になった(と筆者が考える)例が幾つか挙げられていて,その最も成功した人物としてフランスの哲学者・精神科医のジャック・ラカンを挙げています。(あくまでも筆者のヒューゴ・メルシエの意見ですよ。)例として紹介されているラカンの文章は,以下のようなものです。
端的に言えば、自然の特異性は一つでなく、ゆえに論理的プロセスが持ち出せるようなものではない。自分が何か、つまり名づけられることからそれ自身を識別する何かに興味を持っているという単なる事実から自分が除外するものと自然を呼ぶプロセスによって、自然はそれ自体が非自然の混合であると認める以外のいかなるリスクも冒さない。(p.282)
端的に言って難解な文章です。この段落の文章だけでは全く理解できません。一部だけ切り出して批判しないで欲しい,前後の段落(あるいは書籍全部を)読めば理解できる,と主張されるかもしれません。そうだとしても,これだけ「論理的プロセスを持ち出せない」文章にはなかなかお目にかかれません。
最終章から読むとよいかも
本書で主張されている内容を手っ取り早く理解したかったら,最終章(第16章 人は簡単には騙されない)から先に読むとよいと思います。本書全体の流れを頭に入れることができるからです。
この章の最後に,現在,世界で起きている様々な問題である,陰謀論の拡がり,党派の間,専門家と一般人の間の分断などに対して何ができるかについてヒントになる文章があります。
科学的理論は、そのほとんどが深く直観に反するにもかかわらず、社会のほとんどの階層に浸透している。しかも科学者を個人的に知っている人はほとんどおらず、相対性理論や自然選択による進化の理論などの科学的理論を真に理解している人となるとさらに少ない。直観に反する科学的な見方の広範な浸透は、科学的な営為が依拠している、欠陥はあるにせよ堅実な信用の基盤に支えられているのだ。(p.346)
この「信用の基盤」は,データの統計的処理,多様な被験者の確保,実験の数を増やす,利害関係の影響を避ける,後付けの正当化を避けるための仮説をたてる,などで保護され強化できると著者は述べています。それに加えて,他の研究者が検証できるような論文の公開,独立した研究グループによる追実験,研究の過程や成果の透明性を確保することなども必要だと思います。
このように築かれた信用の基盤により,一般市民と科学的な知識は結び付いている,しかし,この結びつきは直接的ではなく,複数のコミュニケーションのリンクによってつながっていて,その連鎖は弱い,と筆者は言っています。本書の最後の段落を引用しておきましょう。
人を説得するためには,すでに確立され長年維持されてきた信用,専門知識に裏づけられた見解の明確な表明,そして堅実な議論が必要とされる。正確ではありながらメディアなどの機関は、苦戦を強いられざるを得ない。信用と議論で構成される長い連鎖に沿ってメッセージを発し続け、その信頼性を保っていかねばならないからだ。奇跡的にもこの長い連鎖は、私たちを最新の科学的発見や地球の反対側で起こったできごとに結びつけてくれる。私は、この脆弱な連鎖を強化し拡張していく新たな手段が見つかることを切に望んでいる(p.346)
私も「連鎖を強化し拡張していく新たな手段」として何が使えるのか大いに興味があります。そして,その中で使われる文章は,わかりやすく工夫されたものであってほしいと考えています。
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