公式は証明してから使え

科学技術

髙﨑 充弘:「ネジザウルス」の逆襲,日本実業出版社(2015)

毎日使っているわけでもないし,収集する趣味があるわけでもありませんが,工具一般には興味があります。「ネジザウルス」が,さび付いたりネジ頭の溝が壊れた(“舐める”と呼びます)ネジを外すための工具であることは,知っていました。

それで,図書館で表紙のタイトルを見て思わず手にとってしまいました。ネジザウルスは,2015年刊行当時で累計250万丁売れていて,これは工具としては異例の販売数なのだそうです。著者は,ネジザウルスを開発し販売している工具メーカーの株式会社エンジニアの社長さんです。そして,ネジザウルスの開発の経緯に触れながら,ヒット商品を生み出すノウハウについて持論を展開しています。「ある商品をヒットさせるにはどうすればよいか」という,科学系・工学系の研究・教育では,取り上げられる機会の少ないテーマを扱っています。

私は道具やシステムの中身や仕組みには興味があるのですが,どうやったら売れる道具が作れるか,ということには,あまり関心がありませんでした。システム開発の用語でいうと,システムの下位の階層に興味があるということになります。一方,自分の作る道具やシステムが社会という,より大きなシステムの中でどういう役割を果たすか,つまり,上位の階層については,あまり深く考えてこなかったといえます。

それで,たまには視点を変えて,自分にとって一番疎い,製品のマーケティングやプロモーションについて書いたものを読んでみようと思ったのです。

本書で語られる「ヒット商品を生み出すための法則」は4つ,マーケティング(Marketing),パテント(Patent),デザイン(Design),プロモーション(Promotion)からなっていて,ひとまとめにしてMPDPと呼んでいます。

一番初めに挙げられているマーケティングは,市場調査のことですね。どのような製品が求められているか,つまりニーズを見つける,ということです。これは,例えばユーザを対象とするアンケートなどで調べることができます。

しかし,面白いと感じたのは,水面下に潜んでいる潜在的なニーズを見つけることが大事だと述べている点にあります。実際,ユーザアンケートで上位に挙がった要求項目よりも,下位にある項目がヒットにつながるニーズであった例が紹介されています。また,ユーザがこんな使い方ができるのかと感じる驚きが必要だと述べています。

つまり,ヒットにつながるニーズを見つけるには,大勢の人の要求だけでなく,ユーザも気づかなかったニーズ,声なき声をとらえなければならない,と言っているのです。

MPDPの残り3つは,P(パテント),D(デザイン),P(プロモーション)です。パテントは特許や知的財産の権利,デザインは見た目や形状,プロモーションは売り出し方ということでしょう。いずれも,大学に勤務する理科系の研究者の多くにとっては専門外だった期間が長かったようです。(最近では,パテントとデザインはかなり重視されるようになってきたと思います。)

しかし,これからの大学は,専門外などと言ってはいられなさそうです。研究成果にしても教育成果にしても,それを広く利用してもらえる知的な財産として管理や保護を考え,見た目や使い勝手を良くし,さらに社会に売り出す。そういうことが必要となってくるのではないかと思います。

遅くなりました。本稿のタイトル「公式は証明してから使え」は,筆者が若いころのエピソードに出てくる言葉です。MPDPとは直接関係ないのですが,感銘を受けたお話しなので紹介します。

筆者は大学を卒業したあと,三井造船株式会社(現三井E&S造船株式会社)に就職します。そこで,ある技術的なトラブルに悩まされていたときのことです。先輩の自宅でメモ用紙に計算式を書いて,原因を導き出そうとしていたとき,先輩に「この計算に使った公式は、どこから出てきたものなんだ」 と言われ,「どこからって、『機械工学便覧』にあった公式だ」と答えます。すると先輩は,その公式は、証明できたのか? その公式が正しいことを証明してから使ったのか?と問いかけます。筆者が「いや、正しいも何も、便覧に書いてましたから….」 と答えたのに対し,「もし、その便覧が間違ってたら、どうするんだ!」と声を荒げ,次のように諭します。

「おまえの仕事には、人の命がかかっている。もし、おまえの計算が間違っていて、その ことで大事故を未然に防ぐことができなかったとしたら、船が沈没して乗客が死んでしま うかもしれない。そのとき、おまえは『だって便覧に書いていました』と言い訳するつもりか。たとえ権威ある文献に書かれていても、鵜呑みにしちゃいかん。本当に正しいと自 分の手で確認できるまで無闇に信用しないのが、この仕事に携わる者の良心だろう」 (p.158)

機械工学便覧のような文献に載っている公式に間違いがあるはずはないと思うかもしれませんが,可能性はゼロではありません。実際に,何度も校閲作業を経て出版された教科書の中で間違いを見つけたり,権威あるジャーナルに掲載された論文の数式に間違いがあることも経験しています。

誤りが混入することを前提して行動すべき工学では,どんなに権威のある文献に書かれた数式であっても自分で導出しないうちは信じてはいけない,というのは,工学に携わる人間にとっては,まさに良心に関わる,守らなければならないことです。

しかし,便覧や定評のある教科書に書かれてある公式が間違っている確率は非常に低いので,全ての公式を証明してから使うなんて効率的でない,という意見も当然あると思います。最近よく聞く(嫌いな言い方ですが)「コスパがよくない」ということでしょうね。

でも「公式は証明してから使え」には,誤りの可能性を極力減らすために身に付けるべき習慣あるいは守るべき倫理条項という意味以上のものがあります。

それは,自分で証明していない公式は有効に使えない,あるいは証明できるスキルがなければ公式を使いこなせない,からです。

私のしていた講義では,数学に基礎をおく様々な理論体系を身につけてもらうことを目標にしています。勢い,数式で書かれた「〇〇の原理」や,公式を扱うことが多くなります。

これらの数式を扱う際は,必ず数式の導出や証明の過程も一緒に学ぶようにしています。工学や物理学の理論体系をシステムだと考えると,数式で書かれた原理や公式も,そのサブシステム(部品)と考えられます。自分の使う道具については,少なくとも1つ下の階層を知る必要がある,つまり,その原理や公式の導出過程を知っておくことが大事だ,という考えから,講義では数式の導出に時間をかけています。

なぜかというと,原理を示す数式や公式を使いこなすためには,その式の「中の構造,仕組み」つまり導出過程を理解する必要があると考えたからです。社会に出てから実際に出会う技術的な問題は,公式に数値を入れて計算するだけで解決できるものばかりではありません。前提としている条件が成り立っていないのに使うべきでない数式を当てはめてしまうかもしれません。計算結果が現実と会わない場合は,導出過程までもどって考えないと,原因を理解できません。

さらに,公式を導出するために身に付けたスキルは,その公式を使う際にも必要となることが多いのです。

というわけで,重要な原理を表す数式や公式を示す際は,証明や導出過程を理解してもらうためにかなり時間をかけていました。ところが,教え方が上手でないこともあって,一部の学生には不評のようでした。

ある日の講義後のアンケートで「大事な公式は導出過程や証明なんかいらないから,さっさと結論だけ述べろ。後は,その公式に数値を入れて計算する「問題の解き方」の練習に時間をかけてくれ。」と書いてありました。このときは,退職後の年金を稼いでくれる若い人がこれでは・・・と,自分の将来が心配になったものです。

とは言え,上位階層の話題を取り上げる機会をもっと増やすべきだとは考えていました。様々な問題の中で数式や公式をどのように使っていくのか,どのようなときに数式が前提としている条件が成り立たないのか,その場合どのようにして修正するのか,などを具体的な例題で示すべきだったのです。だから今では,先のアンケートを書いた学生は,証明の過程を知らなければ解けないうような問題を多く見せてくれ,と言いたかったのだろうと考えることにしています。

なお,著者の経歴を見ると,私と大学入学が同期のようです。本書の中に株式会社エンジニアの前身の双葉工具製作所の製品(ネジを切るためのタップやダイス)の写真が掲載されていて,卒業研究のときに使っていたかもしれないなあと懐かしく感じました。

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